Love Fragrance ~chewing gum~
丸井ブン太のことは、最初から好きだった。恋愛という意味ではなく、人として。初対面から話しやすかったのだ。よく笑うし、よく喋る。美味しい店を知っていて、食事へ行けばだいたい機嫌がいい。
「一口食う?」
自分が頼んだものなのに、惜しげもなくこちらへ差し出す。
「いいの?」
「いいよ。これうまいぜ」
そういうことを誰にでも自然にできる人だった。だから、好きになるのにも時間はかからなかった。ただ、恋愛になるとは思っていなかった。
丸井の周りにはいつも人がいる。友人も多い。後輩らしい相手から電話が来れば、文句を言いながら結局最後まで話を聞いている。
「また?」
電話を切った丸井に聞いた。
「また。ったく、あいつ一回自分で考えてから電話してこいって」
呆れた顔をしながら、十分以上相談に乗っていた。
「嫌なら出なきゃいいのに」
「いや、でもあいつ放っとくと変な方向行くじゃん」
本人は当然のように言う。そういうところを知るたびに、少しずつ困った。
ある日、仕事で失敗した。大きなものではなかったけれど、自分ではかなり落ち込んでいた。約束を断ろうか迷った。でも当日の夕方になって断るのも悪いと思い、そのまま待ち合わせへ向かった。
丸井と合流していつものように店へ入った。いつものように料理を頼んだ。そしてデザートのメニューを開いて、
「今日これ食おうぜ」
と言った。
「大きくない?」
「二人ならいけるだろ」
しばらくして運ばれてきたのは、明らかに二人でも大きいパフェだった。
「絶対無理じゃん」
「いけるって。天才的な俺を信じろって」
「何の天才なの」
笑った。
その瞬間、ブン太が少しだけ目を細めた。それでわかった。たぶん、最初から気づいていた。何があったのかは聞かない。慰めもしない。私が何も話そうとしなかったからだ。
ただ、笑うまで隣にいてくれた。帰り道で、好きだな、と思った。思ってしまった。
そこからは早かった。私の好意に丸井が気付いたのか、丸井から告白されて付き合うようになった。
付き合ってから知ったことがある。
ブン太は思っていたより甘い。
もちろん、外ではそれほど変わらない。人前で必要以上に触れてくることもない。
けれど二人になると、距離が近かった。ソファに座れば自然に肩が触れる。私が眠そうにしていれば髪を撫でてくる。
帰り際には、「次いつ会える?」と聞いてくる。
私の仕事の都合で遠距離になったとき、それはもっとよくわかった。会えるのは月に何度か。以前なら何でもなかった数日、数週間が、やけに長い。
久しぶりに会った日、改札の向こうから歩いてくるブン太を見つけた。目が合った途端、笑う。その顔を見ただけで、会えなかった日々が一気に縮まった。
「久しぶり」
「おー。腹減った」
「最初にそれ?」
「だって腹減ったんだもん」
笑いながら近づいてきた瞬間、馴染みのある香りがした。明るくて爽やかで、少し果物みたいな香り。ああ、ブン太だ。そう思った。
朝から一緒にいて、夜になる。夕食を食べて、少し遠回りして駅まで歩いた。別れたくないと思う頃には、朝とは少し香りが違っていた。もっと柔らかい。少し甘い。
「ねえ」
「ん?」
「ブン太って、時間経つと匂い変わるよね」
足を止めた。
「俺?」
「うん」
ブン太が自分の服の襟を引っ張って嗅ぐ。
「わかんね」
「朝はもっと爽やかな感じ」
「で、今くせーの?」
「違うって」
笑いながら近づいた。もう一度、微かに香る。
「今のほうが甘い」
ブン太が黙った。
「……何その感想」
「本当だもん」
「それ俺に言う?」
耳が少し赤い。珍しい。面白くなって笑っていると、頬を軽くつままれた。
「笑うなよ」
「だって照れてる」
「照れてねーし」
駅が近づく。あと少しで、また離れる。そのことを考えた途端、笑えなくなった。ブン太も何となく察したらしい。歩く速度が少しだけ落ちた。
「この匂いになるとさ」
「ん?」
「帰りたくなくなる」
今度こそ、ブン太が完全に止まった。
言ってから恥ずかしくなった。
「……なんでもない」
先へ行こうとした手を掴まれる。
「なんでもなくねーだろ」
「忘れて」
「無理」
握った手を、そのまま離さない。
「俺だって帰したくねーよ」
簡単に言う。こういうところだ。
知り合った頃は、ただ楽しい人だった。いつも明るくて、よく笑って、美味しいものが好きで。
その印象は今も何も間違っていない。ただ、その奥にいくつも知らないものがあった。
人をよく見ていること。面倒見がいいこと。意外と繊細なこと。
そして、恋人にはこんなに甘いこと。改札の前まで来ても、ブン太は手を離さなかった。
「次、いつ?」
「来月かな」
「遅ぇ」
「仕方ないじゃん」
「来週俺がそっち行く」
即答だった。
「仕事は?」
「調整する」
「無理しなくていいよ」
「俺が会いてーの」
まただ。こんなことを、照れもせず言う。ずるいと思う。
ようやく離れた手の代わりに、ブン太がこちらのマフラーを直した。そのとき、また甘い香りがした。
朝に会ったときより、ずっと柔らかい。たぶんこの人は、ずっとこうなのだ。長くそばにいなければ、わからない。一緒に過ごした時間のぶんだけ、少しずつ変わる。
「じゃあな」
「うん」
「着いたら連絡しろよ」
「わかった」
数歩進んで振り返る。まだそこにいる。ブン太が手を上げた。最初から好きだった。でも、あの頃の私はまだ知らなかった。
この人がこんなふうに甘くなるまで、ずっとそばにいることになるなんて。