Love Fragrance ~illusion~

仁王雅治という人を、最初はあまり信用していなかった。嫌いだったわけではない。むしろ第一印象は悪くなかったと思う。

人当たりは軽いし、話していて退屈しない。こちらが身構えるほど踏み込んでくることもない。何人かで集まればいつの間にか輪の中にいて、かといって中心で騒いでいるわけでもない。

ただ、どこまでが本当なのかわからなかった。

「それ、本当?」

そう聞くと、仁王はたいてい笑った。

「どうじゃろな」

否定もしない。肯定もしない。それが何度か続いて、ある日とうとう呆れて言った。

「仁王くんって、何考えてるかわかんない」

すると仁王は、少しだけ目を細めた。

「そりゃよかった」

何がよかったのか。聞いてもどうせ答えない気がして、その日はそれ以上追及しなかった。

それからも何度か会った。
二人きりではなく、共通の友人を交えた食事だったり、たまたま帰る方向が同じだったり。

でも、仁王は相変わらずだった。

適当なことを言う。本当らしい嘘をつく。こちらが信じかけたところで笑う。

なのに、不思議なことがあった。

雨が降ると言っていた日に傘を忘れたこと。前の晩あまり眠れなかったこと。昼食を食べ損ねていたこと。こちらがわざわざ口にしなかったことに、仁王は妙によく気づいた。

「腹減っとらん?」

夕方、駅まで歩いている途中で突然言われた。

「なんで?」
「昼、食っとらんじゃろ」

足が止まった。

「なんで知ってるの」
「さっきみんなで昼飯の話になったとき、お前さんだけ会話に入らず何も言わんかった」

それだけ、と仁王は言った。その程度のことでも覚えている人なのだと、そのとき初めて知った。

コンビニへ寄るという仁王についていくと、彼は自分の飲み物と一緒に小さな菓子を買った。店を出たところで、それがこちらへ投げられる。慌てて受け取る。

「何これ」
「いらんなら返しんしゃい」
「いる」

仁王はもう先を歩いていた。礼を言うほどのことでもない、という背中だった。

知れば知るほど、わからなくなった。けれど以前とは意味が違った。掴めない人だと思っていた。

今は、見せない人なのかもしれないと思う。自分のことは煙に巻くくせに、人のことばかりよく見ている。優しくしたことすら、できれば気づかれたくないようだった。

好きだと自覚したのは、仁王がいない日だった。何人かで食事をして、いつもの席に仁王だけがいなかった。仕事が長引いたらしい。ただそれだけだった。楽しくなかったわけではない。会話も弾んだし、料理も美味しかった。

それなのに帰りの電車で、今日の話を仁王が聞いたら何と言うだろう、と考えていた。面白い出来事があるたびに、仁王なら笑うだろうかと思った。窓に映った自分の顔を見て、ようやく気づいた。

いないのに、ずっといる。

その後気持ちを抑えられなくなって仁王に告白して、付き合うようになった。関係は友だちから変わっても仁王はそれほど変わらなかった。劇的に甘くなることもなければ、四六時中連絡してくることもない。

「付き合ったらもっと何か変わると思ってた」

そう言ったことがある。

休日、二人で歩いていたときだった。仁王は隣で眉を上げた。

「何を期待しとったんじゃ」
「知らないけど」
「毎朝おはよう、毎晩おやすみ、愛しとるぜよ、とか?」
「最後だけ絶対言わないでしょ」
「ようわかっとる」

笑ってしまった。そういうところは、本当に変わらない。

それなのに、仁王が帰ったあとの部屋には、妙に彼が残っていた。

テーブルの上に置き忘れたガム。冷蔵庫に一本だけ入っている、彼がよく飲む炭酸水。ソファのクッションの位置。借りたままの上着を羽織ったときには、微かに香りがした。

爽やかなようでいて、それだけではない。少し苦くて、時間が経つと柔らかくなる。何の香りなのか、詳しくは知らなかった。ただもう、それを嗅げば仁王だった。

ある夜、駅まで送ってもらった。改札の前で別れて、ホームへ降りる。電車が来るまであと三分。ぼんやり立っていたら、風が吹いた。自分のマフラーから、微かに仁王の香りがした。さっきまで隣にいたからだろうか。

思わず笑ってしまった。その瞬間、スマートフォンが震えた。

『何笑っとる』

反射的に周囲を見回す。少し離れた反対側の通路に、まだ仁王がいた。

こちらを見ている。

『まだいたの?』
『電車乗るまで見送ってやろうと思うたのに、一人でニヤニヤしとるけ。不審者』

スマートフォンから顔を上げると、仁王が笑っていた。
本当に、こういう人だ。

電車がホームへ滑り込んでくる。

『仁王くんの匂いしたから』

向こうでスマートフォンを見た仁王の表情が、一瞬止まっていたような気がした。
珍しいものを見た気がした。

ドアが開く。
乗り込む直前、もう一度画面が光った。

『それは俺がつけてる香水じゃろ』

座席についてから返した。

『でも、もう仁王くんの匂いだよ』

既読がついた。返事はなかなか来なかった。
窓の向こうで、ホームが動き始める。もう姿は見えない。

結局、仁王から返事が来たのは、電車が次の駅へ着く頃だった。

『参ったの』

短い一文を見て、また笑った。

最初は、この人のことなんて一生わからないと思っていた。今だって全部はわからない。たぶん、この先もそうなのだろう。それでもいいと思う。掴もうとすれば、するりと逃げる。問い詰めれば笑って誤魔化す。

なのに、離れたあとほどよくわかる。自分の日常のあちこちに、いつの間にかこの人がいる。マフラーへ頬を寄せる。もうずいぶん薄くなった香りが、まだ少しだけ残っていた。