カメラ、始めました。

丸井がカメラを買ったのは、別に大した理由があったわけではなかった。
欲しいと思ったから買った。
それだけだ。

もともと写真はよく撮る方だった。食べたもの、出かけた先、面白かったもの。スマートフォンの写真フォルダは、食べ物を中心にかなりの速度で増えていく。
ケーキの断面が綺麗だったとか、期間限定のドーナツが思っていたよりでかかったとか、道端で妙な看板を見つけたとか。あとで誰かに見せることもあれば、そのまま忘れていることもある。
写真を撮る行為そのものについて、深く考えたことはなかった。

それがある日、仕事帰りに寄った店で食べたタルトを撮った。
艶のある無花果が薄く重なって、その下に白いクリームと焼き色のついた生地が覗いている。見た瞬間、これは絶対うまいやつだと思ったし、実際味はとても良かった。

いつものようにスマートフォンを構えて何枚か撮った。帰宅してから写真を見返して、丸井は首を傾げた。

「……なんか違うな」

別に失敗しているわけではない。
明るいし、ピントも合っている。無花果だってちゃんと美味しそうに写っている。でも、店で見たときの方がずっと良かった。

もう少しこう、果物の艶とか。クリームの柔らかさとか。皿の向こうがぼんやりしていた感じとか。
目で見たものと、手元に残ったものの間にある差が、妙に気になった。

それからだった。写真を撮るたび、少しずつ気になるようになった。

これはもっと明るく撮りたかった。これは背景が邪魔だった。これは実物の色の方が良かった。
スマートフォンのカメラにもいろいろ機能があることを知って、設定を触った。それなりに面白かった。それでも何かが違った。

そして数週間後。丸井は家電量販店のカメラ売り場にいた。買うつもりはまだなかった。本当に。ただ見るだけのつもりで来た。

ずらりと並んだカメラを眺めているうちに店員に声をかけられ、何を撮りたいのかと聞かれた。

「食いもんとか」

答えてから、少し考える。

「あとまあ、出かけた時とか」

初心者なら、と勧められた一台を手に取った。思っていたより軽い。店内に向けてシャッターを切ってみる。小さな画面に、さっきまで自分が見ていた景色が現れた。

「……おお」

背景が、ぼけていた。
手前に置かれたレンズの箱だけが妙にはっきりして、その向こうの売り場が柔らかく溶けている。

ただそれだけなのに、なんだか格好いい。自分が見ていた世界よりも趣が感じられた。

もう一枚撮った。
今度は別のものにピントを合わせた。

これは面白い。

店員にレンズの違いを教えてもらい、センサーがどうだとか、焦点距離がどうだとか、半分くらいしか分からない話を聞いた。

一時間後。丸井は紙袋を下げて店を出ていた。買うつもりはなかった。

本当に。

「で、買うたん?」

数日後。
仕事終わりに三人で入った店で、白石がテーブルの脇に置かれたバッグを見て言った。いつも丸井が持っているものとは違う、小さめの黒いバッグだった。

「買った」

丸井はあっさり認めた。

「カメラ?」
「そう」

向かいに座っていた仁王が、グラスから口を離した。

「急じゃのう」
「前からちょっと欲しかったんだよ」

それは半分くらい嘘だった。一か月前には、自分がカメラを買うなんて考えてもいなかった。

丸井はバッグを開けた。買ったばかりのカメラは、まだ扱う時に少し緊張する。ストラップを手首にかけてから取り出すあたりに、それがよく表れていた。

「へえ。ええやん」

白石が覗き込む。

「だろい?」
「何撮るん?」
「とりあえず飯」
「やっぱりそこなんや」
「あと適当に」

言いながら、丸井はレンズを仁王へ向けた。
仁王は避けるでもなく、こちらを見る。

「なんじゃ」
「いや、ちょうどいいから」
「何がちょうどええんじゃ」
「試し撮り」

丸井はファインダーを覗いた。

買ってから家の中のものは散々撮った。テーブルの上の菓子。コーヒーカップ。窓際に置いた鍵。意味もなく冷蔵庫に入っていた卵まで撮った。

人間を撮るのは、これが初めてだった。ファインダーの中に仁王がいる。
いつも目の前にいるのと同じ仁王なのに、四角い枠の中に入っただけで少し違って見えた。

「仁王、もうちょいこっち」
「こうか?」

仁王がわずかに顔を動かす。

「そうそう。……待って」

ピントを合わせて、シャッターを押した。ピピっと小さな音がした。

「撮れた?」

白石が聞く。

「たぶん」

丸井は画面を確認し、仁王も身を乗り出す。

「見せてみ」
「近いって」

三人で小さな液晶を覗き込む。
そこには、頬杖をついてこちらを見ている仁王がいた。

店の照明が思ったより柔らかく入っている。背景は綺麗にぼけていた。目にもちゃんとピントが合っている。
初めてにしては、悪くない。

「おおー」

白石が感心したような声を出した。

「ええやん」
「だろい?」

丸井も少し嬉しくなる。仁王はしばらく画面を見ていた。

「まあまあじゃな」
「なんで被写体が偉そうなんだよ」
「モデルがええからじゃろ」
「はいはい」

丸井はカメラを持ち上げた。

「もう一枚」
「ええよ」

仁王はあっさり応じた。
今度は少し身体の向きを変える。それを見て、白石が笑った。

「仁王くん、慣れとるなあ」
「何が?」
「撮られんの」
「普通じゃろ」
「いや、なんか自然やな思て」

丸井は二枚目を撮った。さっきよりいい。もう一枚。

「丸井くん、飯来たで」

白石の声で顔を上げる。ちょうど料理が運ばれてきたところだった。

「お、待って」

今度は皿にレンズを向ける。上から撮ってみる。横からも撮る。背景にグラスを入れてみる。少し位置を変える。

「食わんの?」

仁王が聞いた。

「今撮ってる」
「冷めるで」
「分かってるって」

白石が箸を持ったまま待っている。

「俺、食べてもええ?」
「いいよ。なんで待ってんだよ」
「いや、写り込んだらあかんのかな思て」
「そこまでじゃねーよ」

そう言いながら、丸井はもう一枚撮った。白石の手が、少しだけ画面の端に入った。

あとで確認してみると、不思議とその写真が一番良かった。

料理だけが綺麗に収まった写真より、誰かが今まさに食べようとしている一枚の方が、あの店で三人でご飯を食べていた感じがする。

丸井はその理由をまだうまく説明できなかった。

それから、カメラを持ち歩くことが増えた。
最初のうちは、買ったから使いたいという気持ちの方が大きかった。
休日に一人で出かければ持っていく。新しい店に行けば持っていく。三人で会う日にも、荷物にならなければバッグへ入れた。撮るものは相変わらず食べ物が多かった。

けれど、それ以外も少しずつ増えた。
街路樹。夕方のビル。電車の窓。道端にいた猫。白石が「これ、ええな」と立ち止まった店を指差しこちらを見ている姿。仁王が信号待ちで空を見上げていた横顔。

何が撮りたいのか、自分でもまだよく分かっていない。
ただ、カメラを持っていると、今までなら通り過ぎていたものに目が止まった。
光が綺麗だとか。この色がいいとか。ここに誰かが立ったら格好いいとか。

ある休日、三人で出かけた帰りだった。
駅へ向かって歩いている途中、少し先を歩く仁王と白石を見て、丸井は足を止めた。
夕方だった。低くなった陽が二人の向こうから差して、歩道に長い影が伸びている。白石が何かを話している。仁王が隣で笑った。

丸井はほとんど反射的にカメラを構えて、シャッターを切った。
そのシャッター音に気づいた仁王が振り返った。

「ブン太?」

その横で白石も振り返る。

「どうした?」
「いや」

丸井は撮った写真を確認した。
逆光で、思ったより暗い。仁王の顔も白石の顔も、はっきりとは写っていなかった。構図だって、たぶんそんなに良くない。

それでも。

「……なんか、今の良かった」
「何が?」
「写真」

もう一度カメラを上げる。今度は二人ともこちらを見ていた。

「撮るぞ」
「はいはい」

仁王はそのまま立っている。白石も笑った。丸井はシャッターを切った。

一枚。もう一枚。

「丸井くんも入ったら?」

白石が言った。

「俺が撮ってんだから無理だろい」
「そらそうか」
「そのうち三脚でも買うんじゃなか」

仁王が言う。

「三脚かー」

その時は、本気で考えていなかった。ただ、そういうものもあるなと思っただけだった。

帰宅して、撮った写真をパソコンへ移す。
食べ物。街。猫。仁王。白石。また食べ物。二人の後ろ姿。振り返った二人。

今日一日だけで、ずいぶん増えた。

丸井は椅子の背にもたれ、順番に写真を送っていった。
上手く撮れたもの。いまいちなもの。何を撮りたかったのか分からないもの。

その中で、ふと手が止まった。
夕方の歩道。仁王と白石が並んで歩いている。二人の顔はよく見えない。

写真として上手いのかも分からない。けれど、その時のことはよく覚えていた。
白石が何を話していたのか。仁王が何に笑ったのか。自分が少し後ろを歩いていたことまで。

丸井はしばらくその写真を見た。それから、削除せずに次へ進んだ。

買ったばかりの頃は、うまそうなものを、うまそうに撮りたかった。
今もそれは変わらない。

ただ、撮りたいものは、それだけじゃないらしい。
そのことに気づいたのは、カメラを買ってから、まだ一か月も経っていない頃だった。