上京したての白石くん
東京へ来て、二週間が経った。白石は、思っていたより普通に暮らせていた。
朝起きて、シャワーを浴びる。簡単に朝飯を作って、ニュースを流しながら食べる。スーツを着て、家を出る。電車に乗って、会社へ行く。働いて、帰ってくる。夕飯を作る。お風呂に入る。寝る。
洗濯物は溜めない。ゴミの日も覚えた。近所のスーパーは二軒あって、野菜は駅から少し離れたほうが安い。ドラッグストアは駅前。クリーニング屋も見つけた。
駅まで徒歩九分。会社までは乗り換え一回。
部屋選びは、たぶん正解だった。東京へ出ると決めてから、それなりに時間をかけて探した。会社への通いやすさ。家賃。広さ。スーパーまでの距離。駅前の騒がしさと、住宅街へ入ってからの静かさ。
東京だからといって、都心の真ん中に住みたいとは思わなかった。毎日暮らす場所なのだから、ちゃんと暮らしやすいほうがいい。そうして決めた部屋には、まだ物が少なかった。
家具は一通り揃っている。
ベッド。ソファ。ローテーブル。ダイニングテーブル。テレビ。食器棚。
けれど、どれも買って二週間しか経っていない。
傷もない。癖もない。自分の部屋なのに、まだ少しだけモデルルームのようだった。
「ただいま」
仕事から帰り、玄関を開け電気をつけると。静かな部屋が明るくなる。
「…………」
靴を脱いで、鞄を置く。
当たり前だが、誰もいない。大阪にいた頃だって、一人暮らしをしていた。
一人で飯を食うことも、一人で出かけることもあった。四六時中誰かと一緒にいたわけではない。
ただ、東京での一人は少し違った。
知っている道が少ない。知っている店も少ない。駅名を聞いても、それが自分の家からどちらの方向にあるのか、まだすぐには浮かばない。
会社の人間とはそれなりにうまくやっている。昼食に誘う相手もいる。困っているわけではない。
それでも、仕事を終えて家へ帰ると、一日の中から急に人の気配が全部なくなる。
白石はネクタイを外しながらキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。
豚肉。キャベツ。卵。昨日炊いた米。
「何しよかな」
口にしてから、少しだけ笑った。最近、独り言が増えた気がする。
豚肉とキャベツを炒めた。味噌汁も作った。一人分をダイニングテーブルに並べる。
テレビをつけて、バラエティ番組を見ながら先ほど作ったものを食べる。味は悪くない。むしろ、うまい。
自分で作ったものを自分で食べて、自分で片づける。
困ることは、何もなかった。
土曜日。
朝から掃除をした。シーツを洗って、掃除機をかける。キッチンの油汚れを拭いて、風呂場も掃除した。洗濯物を干し終えたところで時計を見ると、まだ十一時半だった。
「……早」
予定はない。
ソファに座る。テレビをつける。しばらく眺める。消す。静かになる。
スマートフォンを手に取った。SNSを開く。大阪にいる友人の投稿が流れてくる。
飯。旅行。テニス。誰かの誕生日。知っている顔が何人か並んだ写真。
白石は少し眺めて、閉じた。会おうと思えば、会える。東京にだって昔の知り合いはいる。連絡先も残っている。大阪へ帰ることだってできる。
けれど、せっかく東京へ来たのだから、まずはここでの生活を自分で作ってみたい気もした。
「散歩でも行くか」
財布とスマートフォンを持って、家を出た。目的は決めなかった。駅とは反対側へ歩いてみる。住宅街を抜ける。小さな公園。パン屋。古い喫茶店。美容院。蕎麦屋。
また住宅街。東京というと、どこも人だらけで、ビルばかりだと思っていた。住んでみれば、そうでもない。洗濯物の干されたベランダがある。自転車の練習をしている子供がいる。犬を散歩させている老人がいる。軒先いっぱいに植木鉢を並べた家もある。
知らない街だった。けれど暇な時に散歩をしているうちに、少しずつここを曲がればスーパー。この道を抜ければ駅。あそこのパン屋は朝早くから開いている。
そんなことを覚え始めた。その途中で「あ」と白石は立ち止まった。
小さな花屋だった。花よりも、観葉植物が多い。店先に大小さまざまな鉢が並んでいる。
何となく覗く。買うつもりはなかった。それなのに十分後。
「初めてでも育てやすいのって、どれですか?」
と、店員に聞いていた。
「観葉植物、初めてですか?」
「自分で育てるんは。実家では母親がちょこちょこやってましたけど」
「それならポトスなんか丈夫ですよ」
案内された先に、小さな鉢がいくつか並んでいた。
つやのある緑色の葉。ところどころに、淡い黄色の模様。
「水ってどれぐらいです?」
「土が乾いてからたっぷりで大丈夫ですよ」
「毎日ちゃうんですね」
「むしろあげすぎないほうがいいですね」
「日当たりは?」
「明るい室内なら。強い直射日光は避けてください」
「大きなるんですか?」
「育つと蔓がどんどん伸びますよ」
白石は一鉢を持ち上げた。
軽い。葉を一枚見る。別に、特別な植物ではない。珍しくもない。派手な花が咲いているわけでもない。
けれど、
「……これにします」
気づけば、そう言っていた。
帰宅して、白石はポトスをどこに置くかで十分ほど悩んだ。
窓際。日が強すぎる気がする。
テレビボードの端。少し暗い。
結局、レースカーテン越しに光の入る棚の上へ置いた。
ソファに座って見る。
「…………」
何か違う。立ち上がって、鉢を少し右へ動かす。
もう一度座る。
「……こっちやな」
たった一鉢。
それだけなのに。朝まで何もなかった場所に緑がある。白石はしばらく眺めてから、スマートフォンを向けた。写真を一枚撮る。少し暗い。カーテンを調整して、もう一枚。今度は悪くない。
Instagramを開いてさっき撮った写真を選んで、文章を考える。考えるほどのものでもない。
『東京同期。ちゃんと育つかな』
それだけ書いて投稿した。
翌朝。
カーテンを開けると、朝の光が部屋へ入る。その中に、昨日まではなかった緑がある。
「…………」
白石は棚の前に立った。
「おはようさん」
とポトスに言ってから、止まった。
「……何言うてんねやろ」
土を触るとまだ湿っている。水は昨日持ち帰ってきてからあげたばかりだ。
白石はそのままキッチンへ向かった。
植物がひとつ増えたところで、生活が劇的に変わるわけではなかった。
朝は会社へ行く。夜に帰ってくる。
ただ、朝起きると、帰宅して電気をつけると、棚の上に緑がある。
それだけ。
三日目。土を見る。
四日目。葉を拭いてみる。
一週間。
「……ん?」
朝、白石は葉の間に小さなものを見つけた。
明るい緑色。まだくるりと巻かれている。新しい葉だった。
「お」
昨日もあっただろうか。いや、あったのかもしれない。気づかなかっただけかもしれない。
それでも、
「出てきたん」
少し嬉しかった。思っていたよりずっと。
スマートフォンを持ってきて、何枚か撮る。
近すぎる。もう一枚。今度は良い。
Instagramを開いて、写真とともに『新しい葉出てきた』と、投稿する。
仕事へ行く準備をしている間に、いくつか反応がついた。
白石はそれを軽く確認して、スマートフォンをポケットへ入れた。
それから少しずつ。
白石のInstagramには、東京での生活が混じるようになった。
休日に見つけた喫茶店。自分で淹れたコーヒー。散歩の途中で見つけた店。家で作った飯。そして、少しずつ蔓を伸ばすポトス。
誰かに見せたいというほどでもなく、日記に近かった。
東京へ来て、ここへ行った。これを食べた。こんなものを買った。一ヶ月前には何もなかった生活に、少しずつ物が増えていく。場所が増えていく。自分の知っている東京が増えていく。
気づけば「ただいま」
そう言って帰宅することにも、違和感がなくなっていた。
ある土曜の午後。白石は午前中に一通り家事を終わらせ、家でくつろいでいた。そんな時スマートフォンが震えたのだった。
仁王雅治からの着信。
久しぶりに見る名前だった。
「……もしもし」
『白石?』
「そうやけど」
『何しとる?』
それから仁王と丸井と三人で会うようになった。
ポトスは、買った時より少し大きくなっている。
新しい葉ももうすっかり開いた。
東京へ来てから初めて買った植物。初めて見つけた店。初めて覚えた道。
そういうものがひとつずつ増えて。
今度は昔知っていた人間と、ここでまた会うことになった。
白石はまだ知らない。
仁王からの着信。
それが、もう後何ヶ月もすると休日になると勝手に家へ来て冷蔵庫を開けられて、植物を増やしたら気づかれて、三人分のコーヒーを淹れるのが当たり前になる。
そんな関係の始まりになることを、この時の白石はまだ、知らなかった。