mofumofu 2
次の土曜日。白石は、一人でホームセンターへ行った。仁王にも丸井にも言わなかった。別に隠すつもりもなかった。ただ、今日は一人で行ったほうがいいと思った。
ペットショップへ向かう。先週より、歩く速度が少し速い。店が見えてくる。ガラスケースが並んでいる。白石は真っ先に、あの場所を見た。
「……まだおった」
白い身体。薄茶色の耳。
思わず、ほっとした。それから、ほっとした自分に気づいて少し困った。
誰かに飼われていたら、それはそれで良いことのはずなのに。まだここにいたことを喜んでいる。
「勝手やなあ」
白石は小さく呟いてしゃがんだ。犬が気づいて、立ち上がる。とことことガラスの前まで来て、尻尾を振った。
「……覚えてる?」
もちろん、分からない。人間なんて毎日何人も見るだろう。それでも白石には、自分を見つけて寄ってきたように見えてしまう。
「そんなん上手いなあ」
指先をガラスに当てる。犬がそこへ鼻を寄せる。透明な板一枚を挟んで、指と鼻先が重なった。
「俺な」
白石は言った。
「一週間、めっちゃ考えてん」
犬は座った。
「朝の散歩はできる。夜もまあ、残業なかったらできる」
首を傾げる。
「ご飯も、病院も、金のことも。そこは大丈夫」
尻尾が床を叩く。
「ペット可の部屋やしな」
そこまで言って、白石は笑った。
「……飼う気満々みたいやろ」
実際、かなり調べた。
犬を迎える初期費用。毎月かかる費用。ワクチン。去勢。トリミング。保険。誤飲しやすいもの。室温。留守番。散歩。災害時の避難。旅行に行く時。病気になった時。老犬になった時。十年後。十五年後。
自分が何歳になっているかまで計算した。
その全部を調べて。白石は、ひとつの結論を出した。
「でもな」
犬を見る。
「俺、平日おらんねん」
犬が瞬きをする。
「朝出て、帰ってくんの夜やろ。たまに遅なるし」
仕事だから仕方ない。そう言うことはできる。しかし、犬は留守番できる。そう書いてある記事も、いくつも読んだ。工夫すれば一人暮らしでも犬は飼える。実際、飼っている人もたくさんいる。
だから、不可能ではない。
「でもな、俺が飼いたいから、自分に毎日一人で待っててもらうんは……なんかちゃうなあって」
白石は力なく笑った。
「俺が帰ってきた時だけいっぱい遊んだらええ、っていうんもな」
犬が立ち上がった。ガラスを前足で掻く。
「……やめてや」
白石は眉を下げる。
「決めてきたんやから」
また掻く。
「ほんま、やめて」
それでも尻尾は振られている。白石はしばらく、そこにいた。
店員に、「抱っこされますか?」と聞かれた。
少し迷って。
「……ええですか」
そう答えた。これで最後にする。
先週と同じ。小さくて。軽くて。温かい。腕に収まる身体。白石の服の匂いを嗅いで、胸元に鼻を押しつける。
白石はその小さな背中を撫でた。
「俺んち来たら、植物いっぱいあるで」
犬が顔を上げる。
「悪戯したら怒るけど」
鼻先が白石の顎に触れた。
「散歩もいっぱい行ったるし」
尻尾が動く。
「……絶対かわいがる自信あんねんけどなあ」
だから余計に連れて帰りたかった。
このまま店員に「この子にします」と言えばいい。
必要なものを買って。車の助手席に乗せて。家に帰って。どこにベッドを置こう。窓際は植物があるから、リビングの壁側がいい。コード類は隠さないといけない。ラグも替えたほうがいい。観葉植物にも犬には毒になる種類がある。そこも全部見直さないと。そんなことまで、もう考えられる。
白石は犬の頭を撫でた。
「……ごめんな」
犬は何も知らずに、白石の手を舐めた。
「俺やない人んとこ行き」
自分で言って少しだけ胸が痛んだ。
「昼間も誰かおって、いっぱい遊んでもらえる家に行き」
もう一度、頭を撫でる。
「そっちのほうがええわ」
しばらく抱いてから、店員へ返した。腕が、急に軽くなった。
「ありがとうございました」
白石はそう言って、店を出て、『飼わんことにした』とだけ、グループLINEに送った。
丸井から『そっか』と返事が来た。
『見に行った?』
『今日行ってきた』
『一人で?』
『せやで』
少しして仁王から
『泣いた?』
とメッセージが来た。
「誰が泣くねん」と、白石は笑いながら、『泣いてへん』と返した。
『でも白石めちゃくちゃ飼いたそうだっただろい』
『飼いたいで』
それはすぐに打てた。
『今でも』
少し間を置いて。
『でも俺が飼いたいのと、飼ってええかは別やろ』
既読が二つついた。しばらく誰も返してこなかった。
最初に返事をくれやのは仁王だった。
『白石らし』
『分かる』
「何がやねん」
そう言いながら、白石は少し笑った。
二週間後。
仕事中に、丸井からメッセージが来た。
『白石』
その下に写真。あの犬だった。白石は一瞬、息を止めた。写真のガラスケースには、小さな札が貼られている。
家族が決まりました。
「……そっか」
思わず声が出た。丸井はたまたま近くへ来たらしい。
『いなくなってた』
『店員さんに聞いたら先週決まったって』
白石は写真を拡大した。何度も見た顔。薄茶色の耳。寂しい。それは、普通に寂しかった。もうあそこへ行ってもいない。抱くこともない。あの尻尾が自分に向かって振られることもない。
「……よかったなあ」
白石は小さく笑った。
『ほんまよかった』
『うん』
『よかったの』
と送ってきた。
その日の帰り。白石は少し遠回りをして、園芸店へ寄った。特に買う予定はなかった。
店内を歩いて。なんとなく目についた、小さな鉢の前で立ち止まる。丸みのある葉が、何枚もついている。
「……かわええな」
値札を見る。育て方を見る。日当たり。水やり。耐寒性。
十分後。
白石はその鉢を持って、レジに並んでいた。
「また増えた」
数日後、家へ来た仁王が言った。
「増えたな」
「犬の代わり?」
白石は窓際の新しい鉢を見る。
「ちゃうよ」
「ほんと?」
「植物と犬は別もんやろ」
「名前は?」
「植物にいちいち名前つけへんわ」
丸井が新しい鉢を覗き込む。
「これ何?」
「ペペロミア」
「へえ」
丸井が葉に触ろうとする。
「あ、優しくな」
「分かってるって」
仁王はソファに座ったまま、白石を見る。
「犬、また飼いたくなった?」
白石は少し考えた。
「なるんちゃう?」
「いつか?」
「せやな」
コーヒーを三つ、テーブルに置く。
「いつか俺が、ちゃんと一緒におれる生活になったら。その時は、飼いたいな」
「犬?」
「犬」
「また一目惚れする?」
「知らん」
「絶対するぜぃ」
「白石チョロいからの」
「誰がチョロいねん」
笑いながら、自分のカップを持つ。
窓際には、またひとつ緑が増えた。
あの犬が今どこで、どんな名前をつけてもらったのか。白石には分からない。
ただ、たくさん遊んでもらって。たくさん散歩して。お腹いっぱいご飯を食べて、暖かいところで寝て。幸せに暮らしていたらいい。
そう思った。それで十分だった。