一泊二日、三人で。
「丸井くん、何泊するつもりなん?」
待ち合わせの駅の改札を抜けて、すでに到着していた仁王と丸井を見つけ、二人の元へ駆け寄ったが、早々に白石が呆れたように言った。
待ち合わせの新宿駅は土曜日だったこともあり、人は多いし、ガヤガヤとしている。そんな空間の中でも、丸井の肩から提げられたボストンバッグだけが、妙な存在感を放っていた。
「一泊だろい?」
丸井が当然のように答える。
「嘘やろ」
「なんでだよ」
「その荷物で一泊なわけないやん」
白石の視線が、丸井の肩からバッグへ落ちる。
パンパンに膨らんでおり、ファスナーこそ閉まっているものの、あと何か一つ入れたら弾けそうだ。丸井の性格を考えれば、何が入っているかはだいたい想像がつく。着替えだけでこんなことにはならない。三泊くらいなら余裕でできそうだった。
一方、その隣に立つ仁王はというと。
薄手のコートの上から、小さなショルダーバッグを斜めに掛けているだけだった。
白石は今度はそちらを見る。
「仁王くんは逆に少なすぎるやろ」
「一泊じゃろ?」
「着替えは?」
「ある」
「ほんまに?」
「あるある」
「歯ブラシ」
「ホテルのを使えばええ」
「充電器」
「持ってきとる」
「財布」
「ある」
「ほんまに?」
仁王がぴくりと眉を上げた。
「なんで二回聞くんじゃ」
「仁王くんの場合、財布忘れた言うて人に払わせる可能性あるからな」
「信用ないのう…」
「日頃の行いや」
白石はさらりと言い切った。
仁王は不服そうな顔をしたものの、反論はしない。図星なのだろう。
そのやり取りを聞いていた丸井が、横から得意げに口を挟んだ。
「俺はちゃんと全部持ってきたぜ?」
「持ってきすぎや言うてんねん。何入っとるん、そのバッグ」
「着替え、洗面道具、充電器、ヘアセットするやつ、お菓子、UNO――」
「ちょお待て」
と、白石が片手を上げ、丸井の言葉を制止する。
「UNO持ってきたん?」
「やるだろぃ」
「誰が?」
「俺ら」
「やらへんよ。いくつや思とるん」
「やるぜよ」
それまで黙っていた仁王が、何でもないことのように言った。白石が勢いよく振り返る。
「やるん!?」
「白石、UNO弱そうじゃなあ」
仁王のその言葉に、丸井がぷっと吹き出した。
「わかる。なんか真面目にルール守って負けそうだよな」
「なんでやねん。UNOで俺の何がわかんねん」
駅で白石渾身のツッコミが響く。複数の通行人がちらりとこちらを見ており、白石はごほんと咳払いを一つして場を整えていたが、その横で仁王と丸井は笑っていた。
新宿から電車で90分ほど揺られ、温泉が有名なホテルに到着。チェックインを済ませ、三人でエレベーターに乗り込んだ。途端にロビーのざわめきが遠くなり、静かな機械音だけが残った。
丸井はボストンバッグを一度床へ下ろして肩を回し、仁王は壁にもたれてスマートフォンを眺めている。白石だけがカードキーの入ったケースを手に、部屋番号と館内案内を確認していた。
今回の旅行を言い出したのは、丸井だった。理由は単純。三人の休みが平日にたまたま同じ日に重なったから。
『じゃあどっか行こうぜ』
丸井がそう言った。仁王はほとんど考えもせず、『ええのう』と返した。
そして白石は。
『なんで俺まで?』
そう言っていたくせに、翌日の昼には宿の候補を三つ送ってきた。
アクセス、食事、温泉、口コミ。それぞれ簡単な比較までついていた。
結局、一番楽しみにしているのは白石なのではないか。
仁王と丸井はそう思っている。ただし、本人には言わない。言えば絶対に否定するし、何より面倒だからだ。
エレベーターが目的のフロアで止まり、廊下へ出ると、足元には厚い絨毯が敷かれていた。歩くたびに靴音が吸い込まれる。
「ここじゃな」
先を歩いていた仁王が、一室の前で止まる。カードキーをかざすと、ピピっと小さな電子音がして鍵が開いた。
「おおー!」
丸井が真っ先に入っていった。
広めの洋室だった。窓際には小さなテーブルとソファ。カーテンの向こうには山並みが見え、少し傾き始めた午後の日差しが床まで伸びている。
そして。
ベッドが、二つ。
「…………」
白石の足が入口で止まった。
丸井は気づいていない。
仁王は気づいている。そして気づいているくせに、何も言わない。
「仁王くん?」
「なんじゃ」
「候補はいくつか出したけど、最終的に予約したん、仁王くんやったな」
「そうやね」
「俺ら何人?」
「三人」
「ベッド何個?」
仁王が室内を見る。わざわざ確認するように、一、二、と視線を動かした。
「二個」
「なんでや」
「エキストラベッド来るんじゃろ」
「ほんまに?」
「たぶんな」
「たぶん!?」
その横で、丸井はすでに片方のベッドへ飛び込んでいた。スプリングが大きく沈む。
「あー、最高!」
「待てや!」
「何だよ?」
丸井が枕に顔を半分埋めたまま振り返る。
「俺ここー。早い者勝ちだろぃ」
「まだエキストラベッド確認してへんやろ!」
「俺、普通のベッドがいい」
「俺もや!」
その間に仁王は、もう一つのベッドへ腰を下ろしていた。
「じゃ、俺ここにするかの」
「仁王くんまで何しれっと確保しとんねん!」
「白石」
「なんや!」
仁王が窓際を指差した。
「ソファあるぜよ」
「絶対嫌や!」
「じゃあブン太と寝る?」
「なんで俺!?」
丸井が勢いよく起き上がった。
「仁王と白石で寝ろよ!」
「俺は嫌じゃ。隣に人がおると寝れん」
「俺かて嫌やわ!」
白石は額を押さえた。
三人ともいい大人である。それが旅行先のホテルへ着いて十分もしないうちに、寝床を巡って揉めている。
「……もうええ。フロントに聞く」
白石が備え付けの電話を取り、フロントに電話をかけた。
仁王はベッドに座ったまま、丸井は寝転がったまま、その様子を見守っていた。
数分後。白石が受話器を置く。
「……エキストラベッド、あとで入れてくれるって」
「ほら。大丈夫だったじゃろ」
「ほら、やないねん!最初から確認しとけ!」
「結果オーライじゃ」
「仁王くん、ほんま……」
「で、エキストラベッド誰?」
丸井のそのひと言に仁王は片手を出した。
「ジャンケンじゃな」
「異議なし」
丸井もすぐに手を出す。白石は二人を見た。
それから深いため息をつき、諦めたように右手を構える。
「最初はグー、じゃんけん――」
白石は、自分の手のひらを見たまま固まり、そして自分の運のなさを恨んだ。
「…………」
「白石」
「言うな」
「エキストラ」
「言うな!」
夕食を済ませ、温泉から部屋へ戻った頃には、時計の針は九時を回っていた。部屋の中には、入浴前とは違う空気が漂っている。そして、浴衣姿の三人。温泉で温まった身体には、部屋の空調が心地いい。
白石はまだ少し濡れた髪をタオルで拭きながらソファへ腰を下ろし、仁王は窓際に座ってスマートフォンを眺めている。丸井だけは、部屋へ戻るなり冷蔵庫へ直行した。
「飯も風呂も最高だったなー」
そう言いながら冷蔵庫の扉を開けた。
「丸井くん。自分、風呂上がってすぐ食うん?」
「アイス買ったじゃん?」
「温泉の前に飯食ったばっかやろ」
「温泉入ったら腹減った」
丸井が冷蔵庫からアイスを取り出す。
「白石いらねーの?」
「……何味買ったんやっけ?」
「食うんじゃん」
丸井がくっくと笑いながらアイスを差し出し、白石は受け取った。
アイスの袋を開けながら、何となく窓の外を見る。昼間とはすっかり景色が変わっていた。
山はもう見えない。代わりに遠くの宿や家の明かりが、暗闇の中にぽつぽつと浮かんでいる。
普段なら、この時間はそれぞれ別の場所にいる。仕事をしているかもしれないし、一人で家にいるかもしれない。それが今日は、同じ部屋で浴衣を着て、風呂上がりにアイスを食べている。
妙な感じだった。
「仁王くんは?アイス食べる?」
「いらん。眠い」
白石が壁の時計を見る。
「まだ九時半やで」
「朝早かったじゃろ。それに昨日も仕事で遅かったからの」
「ちょっと寝れば?」
丸井が言う。
少しの沈黙の後「そうするか」と言い、仁王がソファから立ち上がり、浴衣の裾を揺らしながら部屋を横切り――
当然のように、丸井が確保したベッドへ潜り込む。
その光景を見て、アイスを食べていた丸井の手が止まった。
「おい」
「ん?」
布団から仁王の顔だけが出る。
「そこ俺の」
「気にしない気にしない」
「ジャンケンしただろ!」
「俺、一番最初に勝ったじゃろ?」
「そっちのベッド取ったじゃん!」
「気が変わった」
「はあー?」
丸井が仁王の布団を剥ぎ取った。
「寒いぜよ」
「知らねーよ!」
仁王も負けじと布団を奪い返す。
いい大人二人が、ホテルのベッドの上で一枚の掛け布団を引っ張り合っている。
「ブン太、一緒に寝るか」
「隣に人がいると寝れないんじゃないのかよ」
「まあまあ。昔は一緒に寝た仲じゃき」
「いつの話してんだよ!」
白石はソファに深く腰掛けたまま、アイスを一口齧った。止める気はない。
「白石!」
丸井が振り返る。
「こいつどうにかして!」
白石は返事の代わりに、もう一口アイスを齧り、「仲えぇな」とぽつりと呟いた。
結局、しばらく攻防は続けていたが、ただただ仁王が丸井のことをからかいたく始めたことだったため、ひとしきりやり取りをした後、仁王は観念して最初に自分で選んだベッドへ戻っていった。
午後十一時。
「UNOやろうぜ」
ふいに丸井が言った。パンパンに詰まったボストンバッグの中から、本当にUNOが出てきた。
ローテーブルの上には、飲みかけのペットボトルと、コンビニで買った菓子。風呂上がりに食べたアイスの袋は、白石によってすでにゴミ箱へ片付けられている。そのテーブルにとんとUNOを置いた。
エキストラベッドも運び込まれ、部屋は昼間より少し狭くなっていた。仁王はベッドの上。横向きになって枕を抱え、先ほどの食休みから完全に寝る体勢に入っている。
自分もUNOをやることを察したのか、頭まで布団を被り逃げようとしていた。
「仁王、起きろ」
「もう寝る」
「旅行来て十一時に寝る奴いる?」
「おるじゃろ、ここに」
「つまんねー」
「白石とやればええじゃろ」
「二人でUNOやってどうすんだよ」
「できるできる」
「できるけど盛り上がらねーじゃん」
白石は丸井から受け取ったカードを何となく切っていた。ぱらぱらと乾いた音がする。
「仁王くん」
「なんじゃ?」
「俺が弱そう言うてたよな」
返事がなくなった。丸井が白石を見る。白石も黙ったまま、ベッドを見る。
数秒後、もぞもぞと布団が動き、銀色の髪が布団から覗く。
「……言ったかもな」
白石が笑う。
「やる?」
「やるか」
と言いながら、仁王は身体を起こした。
「白石、仁王の扱いうまくなったな」
「簡単や。煽ったらええねん」
「誰が簡単じゃ」
十分後。
「白石」
低い声で仁王が言う。
「なんや」
「今、二枚出したじゃろ」
白石は平然としている。
「出してへんよ」
「見たぞ」
「証拠は?」
仁王が目を細めた。丸井が腹を抱えて笑い始める。
「白石めっちゃイカサマするじゃん!」
「してへんって」
「絶対した!」
「仁王くん。人を疑うんはよくないで?」
白石がにっこり笑う。仁王はしばらく白石の顔を見た。
そして、呆れたように息を吐く。
「こいつこんな奴じゃったか?お前さん、俺よりタチ悪いのう」
「最高やん」
「褒めてない」
さらに十分後。
「UNO!」
丸井が勢いよく宣言する。丸井は残り一枚。
その瞬間、仁王が顔を上げた。
「ブン太」
「ん?」
「あれ何?」
「え?」
丸井が反射的に振り返る。
何もない。当然だ。
再びテーブルへ向き直った瞬間、丸井の目が見開かれた。
「おい!!!!」
「なんじゃ」
仁王は何食わぬ顔でカードを持っている。
「今自分の手札からカード取っただろ!」
「取っとらんよ」
「取った!」
「証拠は?」
一瞬の沈黙。
白石が耐えきれず笑い出した。
「仁王くん、俺の真似すんなや」
「なるほど、こういうことか」
「納得すんな!お前ら最悪!!」
丸井の声が部屋に響いた。
結局。一回だけのつもりだったUNOは二回、三回と続いた。
負けた理由に納得がいかない。
今のカードはおかしい。
絶対に誰かが何かした。
そんなくだらない言い争いをしているうちに、時計の針は午前零時を回った。
仕事の話はほとんどしなかった。昔の話も、それほどしなかった。
学生の頃なら、一緒に泊まる理由は合宿か遠征だった。明日の試合のことを考えて、決められた時間に寝て、朝を迎えていた。
今はもう、三人とも大人になった。住んでいる場所も、仕事も、生活も違う。
休みだって、そう簡単には揃わない。
だからこそ。
偶然空いた一泊二日を、こんなふうに使えることが、少しだけ特別なのかもしれない。もちろん。そんなことを口にする者は、一人もいなかった。
翌朝。
「起きや」
カーテンの隙間から、細い朝の光が差し込んでいる。白石はすでに着替えを済ませていた。
「朝やで」
反応はない。
丸井は掛け布団に半分埋まり、仁王に至っては頭まで布団の中だ。
白石は二人を見渡し、そして躊躇なくカーテンを開けた。朝日が一気に部屋へ入る。
「眩しっ!」
丸井が布団を頭まで引き上げた。
「閉めろって!」
「もう八時や。朝食バイキング受付九時までやで」
「バイキング!」
布団が跳ねた。さっきまで死んだように寝ていた丸井が身体を起こす。
髪も盛大に跳ねていた。
「今何時?」
「八時」
丸井が慌てて洗面所へ向かう。
一方、もう一つのベッドは静かなままだ。
白石が近づく。
「仁王くん」
「……」
「朝やで」
「……」
「死んどる?」
布団の中から声がした。
「勝手に殺すな」
「起きとるやん」
「寝とる」
「喋っとるやろ」
「寝言じゃ」
「器用やな」
白石は呆れたように息を吐いた。けれど、それ以上は起こさない。
仁王が朝に弱いことは知っている。
そして、朝食の時間もわかっていながら寝ているであろうことも、結局は間に合わせることも。
付き合いが長くなれば、そういうことも分かるようになる。
八時五十五分。三人とも朝食会場にいた。受付には間に合ったようだ。
「ほらな」
コーヒーを片手に仁王が言う。
「何がほらな、やねん」
白石は呆れる。
「間に合ったじゃろ」
「結果の話してへん。過程の話してんねん」
「朝から細かいのう」
「誰のせいや」
そんな二人の会話をよそに、丸井はすでに二度目の料理を取りに行っていた。戻ってきた皿には、焼き魚、卵焼き、ウィンナー、ポテト、パン。さらに小さな器にヨーグルトまで乗っている。
中学生の頃ほどの勢いはないが、それでも、よく食べる。
「丸井くん、朝からよう入るな」
「バイキングだぜ?食わなきゃもったいねーじゃん」
「ブン太は昔から変わらんの」
白石の皿には、クロワッサン、スクランブルエッグ、ウィンナー、サラダ。見本のような朝食だった。
仁王の前には、ブラックコーヒーだけ。
朝食会場の大きな窓からは柔らかな朝日が差し込んでいる。
昨日は移動して、食べて、風呂に入って、夜中までUNOをした。
一泊なんて、あっという間だ。チェックアウトをすれば、またそれぞれの日常へ戻る。
仁王がコーヒーカップを置いた。
「次どこ行く?」
白石が顔を上げる。
「次?」
「次の旅行」
「もう行く前提なん?」
「行かんの?」
何でもないことのように聞く仁王に白石は一瞬黙った。
クロワッサンをちぎり、口へ運ぶ。咀嚼して。コーヒーを一口。
「……北海道?」
仁王が笑った。
「行く気満々じゃな」
「うるさい。聞いたの仁王くんやろ」
丸井もすぐに食いついた。
「北海道で何食う?」
「海鮮やろ。あとジンギスカンと――」
と、言いかけて白石は止まる。丸井がにやりと笑う。
「めっちゃ調べてきそう」
「宿も白石に任せるか」
「白石そういうの上手そうだもんな」
「都合ええ時だけ持ち上げんな!」
そう言いながら、白石はすでにスマートフォンを取り出し、検索画面を開いていた。
「……時期いつがええんやろ」
向かいに座る仁王と丸井が、同時に顔を見合わせた。言葉はない。けれど、二人とも同じ顔をしている。
それに気づいた白石が眉を寄せる。
「……なんや」
「白石」
仁王が呼ぶ。
「なんや」
「楽しみなんじゃな」
「うるさいで」
「まだ何も言ってねーじゃん」
丸井が笑う。
「顔見たらわかるわ!」
朝食会場の一角に、三人の笑い声が混じった。
窓の外はよく晴れている。今日が終われば、またそれぞれの生活に戻る。次に三人の休みが重なるのがいつになるのかは、まだ分からない。北海道だって、本当に行けるのか分からない。
それでも白石のスマートフォンには、すでに『北海道 旅行 おすすめ時期』の検索結果が並んでいた。
たぶん、二度目もある。というより、この時点で、もうほとんど決まっていた。