mofumofu
白石はその日、植木鉢を買いに来ただけだった。本当に、それだけだった。
少し前に株分けしたモンステラが順調に根を伸ばしていて、そろそろ一回り大きな鉢に替えてやりたい。植え替えるにしても土は足りない。
だから休日の午後、車で少し大きなホームセンターまで来た。園芸コーナーで鉢と培養土、それから予定になかった小さな霧吹きまでカートに入れて。
それで帰るはずだった。
「……あかん」
白石は思わず立ち止まった。
ペットショップの前。ホームセンターの一角に入っている、さほど大きくないお店。トリミングもできるぐらいのサービスはあり、そしてガラス越しに犬や猫がいるのはこのホームセンターに初めて来た時から知っていた。
が、見ないようにしていた。見たら長くなるから。
そうは言っても別に飼うつもりはない。
一人暮らし。仕事もある。平日は朝から家を空けるし、帰宅が遅くなる日だってある。犬を飼うなら散歩も必要だ。旅行にも気軽に行けなくなる。病院代もかかる。十年、十五年、その命に責任を持つことになる。
白石はそういうことを、ちゃんと考える。
ちゃんと考える人間だからこそ、飼わない。そう決めていた。
「……あかんて」
ガラスの向こうに、白い犬がいた。正確には真っ白ではない。耳のあたりだけ、薄い茶色。小さくて、ころころしている。同じスペースにいるもう一匹が玩具を振り回している横で、そいつだけ妙におとなしく座っていた。
白石がその犬を見ると、犬は顔を上げて白石を見た。
「…………」
そして、尻尾が動く。ぱた。ぱたぱた。
白石が一歩近づくと、犬も立ち上がり、ガラスの前まで来る。
「いや」
白石は小声で言った。
「そんなんされたら困るねん」
聞こえているはずもない。
犬はガラスに前足をついた。白石もしゃがむ。
「俺、飼われへんで」
尻尾が振られる。
「仕事あるし」
ぱたぱたぱた。
「昼間ずっとおらんし」
ぱたぱたぱたぱた。
「……聞いてる?」
犬が首を傾げた。
終わった。と、白石は思った。これはあかん。
「抱っこしてみますか?」
「いや、大丈夫です」
即答した。
店員が笑顔で離れていく。白石は自分を褒めた。
偉い。ここで抱いたら終わる。絶対に終わる。ガラス越しだからまだいい。かわいいな、で済む。抱っこは駄目だ。温度を知る。重さを知る。毛の柔らかさを知る。
そんなもの知ったら、カートの中身が植木鉢から犬用品に変わる可能性がある。
「…………」
犬がこちらを見ている。
「そんな見んといて」
尻尾が動く。
「……ほんまに」
白石はスマートフォンを取り出し、店員さんに「写真だけ一枚ええですか?」と、許可をもらった上で写真を撮った。撮ってから、何をしているんだと思った。
そしてその写真を、三人のグループに送った。
『見て』
丸井からすぐに返信が来た。
『かわい』
仁王。
『犬じゃ』
丸井から、
『白石飼うの?』
『飼わへん』
すぐに送信して、犬を見る。削除できない送信済みの文字を見る。もう一度犬を見て、『たぶん』と追加した。
仁王から電話がかかってきた。
「もしもし」
『お前さん今どこ』
「ホームセンター」
『犬の前?』
「せやで」
『何分おる』
白石は時計を見る。
「……二十分ぐらい」
『終わっとるじゃろ』
「終わってへん」
『もう名前考えた?』
「考えてへん!」
少し声が大きくなった。犬がびくっとする。
「あ、ごめんな」
『誰に謝った』
「犬」
電話の向こうで仁王が笑った。
『終わっとる』
「うるさいで」
『で、何犬?』
「ミックス」
『何と何』
「トイプードルとマルチーズ」
『ふーん』
「男の子で、生後三ヶ月」
沈黙。
『めちゃくちゃ見とるぜよ』
「書いてあんねん!」
『名前は?』
「まだない」
『価格は』
白石は答えなかった。
『見たんじゃな』
「……見た」
『抱いた?』
「抱いてへん」
『偉い偉い』
「腹立つわあ」
仁王は完全に面白がっている。
『飼えば?』
「簡単に言うなや」
白石は立ち上がった。
少し離れよう。そう思ったのに、犬も白石についてガラスの端まで歩いてくる。
白石が右へ行く。犬も右。左へ行く。犬も左。
「……仁王くん」
『ん?』
「この子、めっちゃ俺についてくんねんけど!」
『ほう』
「俺が動いたら動く」
『そうか』
「めっちゃかわええやん」
『もう帰れ。お前さん今日犬連れて帰る』
「買わへんわ!」
『じゃあ今すぐそこを離れて帰りんしゃい』
「…………」
正論だった。仁王のその言葉に白石は帰った。
予定通り植木鉢と土だけ買った。霧吹きも買った。帰宅してモンステラの植え替えもした。夕飯も作った。風呂にも入った。
二十三時。ベッドに入る。
「…………」
スマートフォンを開く。ペットショップで撮った一枚の写真を見る。
「……かわええなあ」
閉じる。五分後。もう一度開く。
「…………」
閉じる。十分後。開く。
「いやいやいや」
白石はスマートフォンを伏せた。
無理だ。平日はどうする。散歩は朝晩。朝は少し早く起きればいい。夜は――いや、そういう問題ではない。
出張が入ったら。ペットホテル。
いやいや。何を調べる気だ。
白石は検索画面を閉じた。
翌朝。
『犬 一人暮らし 留守番 何時間』と、検索した。
「…………」
その夜。
『犬 月 費用』と、検索した。
翌日。
『トイプードル マルチーズ ミックス 性格』と、検索した。
さらに翌日。
『犬 初めて飼う 必要なもの』
そして金曜の夜。
「白石」
「ん?」
ふと丸井が言った。三人で仕事終わりに飯を食べていた。
「犬、どうなった?」
白石の箸が止まる。仁王が笑う。
「聞くなって」
「なんで?」
「こいつ毎日写真見とるぞ」
「なんで知ってんねん」
「さっきもちらっと見とった」
「……」
丸井が目を丸くする。
「まだ気になってんの?」
「まあ……」
「飼えばいいじゃん」
「丸井くんまで簡単に言わんといて」
「白石ならちゃんと世話しそうだけどな」
「そういう問題ちゃうねん。俺がちゃんと世話できるかどうかをちゃんと考えなあかんねん」
「だからそれ考えてる時点で白石じゃん」
仁王がグラスを置いた。
「明日見に行けば?」
白石は顔を上げる。
「何しに」
「まだおるか見に」
その言葉に、胸がざわついた。まだいるか。
逆に言えば。もう、いないかもしれない。誰かが連れて帰ったかもしれない。
「…………」
丸井と仁王が顔を見合わせる。
「白石?」
「……明日」
「うん?」
「暇?」
丸井が笑った。
「行く?」
「いや、別に」
「行きたいんじゃろ」
「……客観的な意見が欲しいだけや」
「はいはい」
翌日。
三人でペットショップへ行った。
「おる」
白石が言った。
いた。同じ場所に。白い身体。薄茶色の耳。白石を見つけたのかどうかは分からない。けれど、目が合った瞬間に立ち上がった。尻尾が揺れる。白石がそばまで近寄りしゃがむ。
犬は白石のところへ寄ってくる。
「……おったなあ」
声が、明らかに優しい。仁王が隣で笑った。
「よかったの」
「せやな」
丸井もしゃがむ。すると、犬が丸井の方へ行った。
「え」
丸井が指をガラスへ近づける。犬は大喜びで尻尾を振る。
「めっちゃ来る」
「……」
「かわいいなー」
「……丸井くん」
「ん?」
「ちょっと離れて」
「なんでだよ!」
仁王が腹を抱えて笑っている。
「白石、嫉妬しとる!」
「してへん!」
「犬に好かれるんじゃな、丸井」
「俺なんか甘い匂いすんのかな」
「…するんちゃう?」
「白石めっちゃ不満そうじゃん」
「してへんって!」
その時、店員がやって来た。
「よかったら、抱っこされますか?」
白石が固まった。仁王を見る。丸井を見る。犬を見る。
「白石。一回ぐらいいいんじゃね?」
「まあ、抱いたら終わりじゃな」
「言うなや」
数分後。白石の腕の中に犬がいた。
「…………」
小さい。思っていたよりずっと軽い。柔らかい。温かい。腕の中で少しもぞもぞして、それから白石の胸に顎を乗せた。
「…………」
白石は動かなくなった。丸井が顔を覗く。
「白石?」
「……あかん」
「何が」
「これはあかん」
仁王が笑いを堪えている。
「終わった?」
「……終わったかもしれん」
犬が白石の顎を舐めた。
「っ、はは」
白石が笑った。その顔を見て、仁王と丸井が同時に黙った。白石は犬の背中をゆっくり撫でている。いつもの、植物の葉を扱う時よりさらに慎重な手つきだった。
「かわええなあ、お前」
完全に犬に話しかけている。
「俺んち来る?」
「白石」
「……ん?」
丸井が真顔で言った。
「今、飼うって言った?」
「言ってへん」
「俺んち来る?って」
「質問しただけや」
「犬に?」
「犬に」
仁王が横から覗く。
「返事は?」
犬が仁王の鼻を舐めた。
「俺に来た」
「あ」
白石が犬を少し引き寄せる。
「仁王くん、近い」
「なんじゃお前」
「別に」
「丸井にも取られ、俺にも取られ」
「取られてへんわ」
「まだお前さんの犬でもないじゃろ」
「…………」
白石が黙った。
その日は結局、連れて帰らなかった。店員に飼育環境のことを聞いた。留守番の時間についても聞いた。
必要なものも。病院のことも。保険のことも。散歩のことも。
全部聞いて、それでも白石は、「今日は決められません」と言った。
店を出る時、何度も振り返った。
「意外」
と、帰り道、丸井が言った。
「何が?」
「絶対飼うと思った」
「命やで」
白石は前を向いたまま言う。
「かわいいだけで連れて帰られへんやろ」
仁王が隣を歩きながら、
「じゃあ諦める?」
と聞いた。
「……」
白石は答えない。少し歩いてから、
「来週。もう一回見に行く」
仁王が笑った。
「まだおったら?」
白石はしばらく黙っていた。
「……その時は」
また少し黙る。
「俺んち来る運命やったってことで、ええんちゃう?」
「出た」
「白石が運命とか言ってる」
「うるさいな!」
「名前考えとるじゃろ」
仁王が言った。
「考えてへん!」
「ほんと?」
「ほんまや!」
「じゃあ今スマホのメモ見せてみ」
「なんでやねん!」
白石はポケットを押さえた。その反応だけで十分だった。
「考えてんじゃん!」
「うるさい!」
二人の笑い声が響く。白石のスマートフォンのメモには、まだ誰にも見せていない名前が、三つ。きっちり候補として並んでいた。