丸井ブン太の休日

丸井の休日は、弟からの電話で始まった。正確には、その前に二度ほどLINEが来ていた。

一度目は八時十二分。『起きてる?』
二度目は九時二十分。『兄貴』

どちらも寝ていたので気づかなかった。三度目に諦めて電話をかけてきたらしい。枕元で震え続けるスマートフォンを手探りで掴み、画面も見ないまま通話ボタンを押した。

「……もしもし」
『寝てた?』
「寝てた」
『もう十時半だけど』
「今日休み」
『知ってる』
「じゃあいいだろい」

目を閉じたまま答える。
カーテンの隙間から差し込む光が、ちょうど顔に当たっていた。昨夜閉め方が甘かったらしい。丸井は布団を頭まで引き上げた。

「どした?」
『母さんから連絡来た?』
「来てないけど」
『絶対来てるって。見てないだけだろ』
「……あとで見る」
『今日中に返事してって言ってたよ』
「何の?」
『来月のじいちゃんのやつ』

そこまで聞いて、ようやく記憶が繋がった。

「あー」
『忘れてただろ』
「忘れてねえよ」
『今の「あー」は忘れてたやつじゃん』

弟の声が笑っている。丸井は布団から片腕だけ出して、スマートフォンを耳から離した。通話をスピーカーモードにして、スマートフォンに届いている通知を確認する。

通知がいくつも溜まっている。その中に、母親からのLINEもきっちりあった。

「分かった。返しとく」
『今日な』
「分かったって」
『兄貴の今日中、信用ならないからなー』
「うるせー」

電話を切る。そのまま二度寝しようとして、やめた。
一度目が覚めると、腹が減っていることに気づいたからだった。

お昼はジャッカルと食うことになっていた。約束したのは昨日。

『明日休み?』と送ったら、『休みだけど』と返ってきたので、『昼飯』とだけ返した。
それで約束は決まり、ジャッカルが選んだ店でご飯を食べることになった

約束の時間よりは早かったがカメラを持って家を出た。休みの日にカメラを持って歩くようになってから、こういうことが増えた。少し早めに家を出て、出かけるついでにカメラを持っていき、待ち合わせまで写真を撮ったり、今まで撮ったものをなんとなく眺めたり。おかげで待ち合わせに遅刻する、ということがだいぶ減った。

今日は天気がよかった。

駅までの道で一枚。商店街の古い看板で一枚。店先で寝ている猫を見つけて、少し離れたところから二枚。撮ったものをその場で確認することはあまりない。失敗していたら、それはそれでいい。

歩きながら、母親への返信を済ませた。
ついでに家族のグループLINEを見る。弟が送った写真に、もう一人の弟が変なスタンプをつけている。丸井も同じスタンプを送った。すぐに、『兄貴それ俺が送ったやつ』と返ってきた。
既読だけつけて閉じた。

待ち合わせの店に着くと、ジャッカルはもういた。昔から待ち合わせにはジャッカルの方が先に来る。丸井が遅刻するからではない。ジャッカルが早いのだ。少なくとも丸井はそういう認識でいる。

向かいに座るなり、ジャッカルがカメラを見た。

「また持ってんのか」
「おぅ」
「ハマってんな」
「結構おもしれーよ」

メニューを開きながら答える。ジャッカルはしばらくカメラを見ていた。

「俺撮るなよ」
「撮らねーよ」
「前撮っただろ」
「あれはお前が変な顔してたから」
「飯食ってただけだ!」

そうだったかもしれない。写真はまだ残っている。

二人で会うのは久しぶりだったが、久しぶりという感じはあまりしなかった。近況報告らしい近況報告もしない。仕事はどうだとか、最近何をしているとか、そういう話は必要になれば勝手に出てくる。昔からそうだった。

ジャッカルが頼んだものを一口、と言いつつ三口分ぐらいの大きさで取った。

「おい、取りすぎ!」
「まあまあ気にすんなって」

そういうところも変わらない。
食後のコーヒーを飲んでいると、スマートフォンが震えた。赤也だった。

『丸井先輩』

名前だけ。嫌な予感がする。無視していると、もう一度来た。

『ちょっと聞いていいっスか』

ブン太は片手で返信した。

『何』

すぐに既読がつく。そのまましばらく何も来ない。

「どうした?」

ジャッカルが聞いた。

「赤也」
「あいつ何だって?」
「まだ何も」

しばらくして、長い文章が届いた。仕事の話だった。どうやら後輩に何かを教えることになったらしい。
何回説明しても上手くいかない。どうすればいいか。自分でやった方が早いとすら感じている。
そんな内容だった。

丸井は一度全部読んだ。

『お前がやった方が早いのは当たり前だろ』『そいつがお前と同じようにできるように教えんのがお前の仕事なんじゃねーの』『自分もできなかったことがあった時、先輩にどうしてもらったか思い出してみろい』

向かいからジャッカルが覗こうとする。

「何て?」
「んー。赤也が仕事で後輩指導について悩んでる」

『なるほど』『さすが丸井先輩』

「赤也も大人になったよなー」

思わず声に出た。ジャッカルが笑って「あの赤也がな」と中学時代のことをしみじみ思い出していた。

店を出たところでジャッカルとは別れた。このあと用事があるらしい。

「じゃあなー」
「おう。また」

それだけで、それぞれ逆方向へ歩く。次にいつ会うかは決めない。
たぶんまた、どちらかが暇になったときに連絡する。

丸井はそのまま電車に乗った。何駅か先で降りて、歩いたことのない道を選ぶ。

住宅街を抜ける。小さな公園がある。ベンチに座る老人。自転車で走っていく親子。洗濯物。古いアパートの階段に落ちた影。気になったものにカメラを向ける。上手い写真を撮りたいとは思う。

でも、それ以上に、撮っている時間そのものが面白かった。

テニスとはまるで違う。勝ちも負けもない。誰かと比べる必要もない。自分がいいと思ったら撮る。それだけだった。

十五時を過ぎた頃、ケーキ屋を見つけた。小さな店だった。外からひっそり店内を覗くとショーケースには季節限定と書かれたタルトが並んでいた。元々ケーキが好き、と言うのもあるがキラキラと輝いて見えるタルトに心が動き、写真を一枚撮ってから店に入った。

自分用に二つ買ったところで、二つでいいか悩み、結局、追加で二つ買った。
誰に渡すかは決めていなかった。むしろ自分で四つ食べても良いぐらいだ。

店を出たところで、仁王からLINEが来ていた。

『暇か?』

丸井は笑った。こいつの誘い方は昔から変わらない。タイミングが良い。

『暇。今外にいる』
『どこ?』

場所を送る。少しして、

『近いの。白石んとこ行かん?』

と返ってきた。
丸井はさっき買ったケーキ屋の紙袋の中を見た。タルトが四つ。ちょうどいい。

『行く』

白石の家に着いたのは、夕方で仁王の方が先に来ていた。インターホンを押すと白石が出てきて、丸井の持っている紙袋を真っ先に見た。

「お、手土産か?それ」
「タルト」
「ほんま甘いもの好きやなあ。おおきに」

リビングから仁王も現れた。

「ブン太。遅かったの。お、なんじゃそれ」
「タルト」
「俺いらん」
「知ってる」

丸井は白石にタルトの入った紙袋を渡し、適当な椅子に座った。
仁王はソファに座り、白石はキッチンに戻る。

白石が作った夕飯を食べて、酒を飲みながら、昼にジャッカルと会った話、赤也から相談された話、それからはもうなんでもないような話をしたり、テレビを見たり。もう沈黙すら苦にならない心地いい関係だった。

買ってきたタルトを食べる頃には、二十二時を回っていた。

「俺はタルトいらんが、それでもなんで四つあんるんじゃ」
「俺二つ食うから」

そう言って、丸井は二つ食べた。
白石が一つ。残った一つは結局、仁王が半分だけ食べた。残りの半分は丸井。

「いらんって言ってたじゃん」
「一口食え言うたんお前さんじゃろ」
「うまいだろ?」
「まあまあ」
「素直じゃねーな」

どうでもいい話をしているうちに、時間が過ぎる。

帰りの電車で、丸井はカメラを取り出した。今日撮った写真を、初めて最初から見返す。
朝の商店街。猫。ジャッカルの手。撮らないと言ったくせに、コーヒーカップを持つ手だけ撮っていた。住宅街。公園。親子。タルト。夕方の空。そして最後の方に、白石の部屋で撮った写真が何枚かあった。
キッチンに立つ白石。ソファでスマートフォンを見ている仁王。テーブルの上の空になった皿。半分残ったタルト。

いつ撮ったのか、自分でも覚えていない。特別な写真は一枚もなかった。

スマートフォンが震えた。弟からだった。

『母さんに返事した?』

丸井はカメラを膝に置き、『した』と返すと、すぐに既読がつく。

『珍しい』
『うるせ』

その下に、赤也からも来ている。『月曜やってみます!』

ジャッカルからは、『今度肉食おうな』

仁王からは、『タルト半分でちょうどよかった』

白石からは、『今日のタルトの店教えてや』

通知が縦に並んでいる。丸井は一通ずつ返していった。

電車が最寄り駅に着く。カメラを鞄にしまい、立ち上がる。


弟と話した。ジャッカルと飯を食った。赤也から相談された。写真を撮った。仁王と白石と夕飯を食べた。
それだけの休日だった。

改札を出る。夜風が少し涼しかった。
家までの道を歩きながら、丸井はふと足を止めた。街灯の下に、自転車が一台停まっている。その向こうに、細い月が見えた。鞄からもう一度カメラを取り出して、ファインダーを覗く。少しだけ位置を変え、シャッターを切った。

今日最後の一枚だった。