兄貴でいる時間

弟から電話が来たのは、平日の夜だった。丸井はちょうど風呂から上がったところで、冷蔵庫を開けながらスマートフォンの通話ボタンを押した。

「どした?」
『兄貴、今平気?』
「平気だけど」

冷蔵庫には昨日買ったプリンが残っていた。それを取り出して、ソファに座る。
弟はすぐには話さなかった。
珍しい。普段なら用件から先に言う。

実家行く? これ覚えてる? 母さんから連絡来た?

兄弟間の電話なんて、大抵そんなものだった。

「なんかあった?」
『いや』
「だから何」
『俺さ』

丸井はプリンの蓋を剥がし、プリンを食べ始める。

「早く言えよ」
『結婚する』

スプーンが止まった。

「…………は?」
『だから、結婚』
「誰が?」
『俺が』
「お前が?」
『そう』

丸井はスマートフォンを耳に当てたまま、しばらく黙った。聞き間違いではないらしい。

「……マジで?」
『マジ』
「いつ?」
『まだちゃんとは決まってないけど、式はたぶん来年』
「へえ」

自分でも妙な返事だと思った。弟が笑う。

『何その反応』
「いや」

プリンを一口食べる。味がよく分からない。

「びっくりした。相手、あの子?」
『うん』

存在は知っていた。写真も見たことがある。何度か実家にも来ているらしい。付き合いが長いことも知っていた。
だから、考えてみれば不思議な話ではなかった。

「そっか」

丸井はもう一口プリンを食べた。今度はちゃんと甘かった。

「おめでと」
『おう。ありがと』

それから弟は、両家の顔合わせがどうとか、式をどうするかとか、まだ決めていないことをいくつか話した。丸井は聞きながら、時々口を挟んだ。母親にはもう話したらしい。父親も知っている。もう一人の弟にも連絡済み。

自分が最後だった。

「何で俺最後なんだよ」
『兄貴仕事中だと思って』
「LINEで良いじゃん」
『こういうのLINEで言うのもなと思って』
「変なとこ真面目だな」
『うるさい』

電話を切った後は、部屋が静かになった。丸井は食べかけのプリンを持ったまま、ソファに座っていた。

弟が結婚する。
別に寂しいわけではない。むしろ嬉しい。相手のことも悪く思っていないし、弟が楽しそうならそれでいい。

ただ、

「……結婚すんのか」

誰もいない部屋で口にしてみた。妙な感じがした。

その週末、仁王と白石と飲んだ。場所は白石の家だった。

「そういや、弟結婚するって」

白石が顔を上げた。

「え、ほんま?めでたいなあ」

仁王はグラスを持ったまま止まった。

「どっち?」
「下」

仁王の眉が上がる。

「あのチビ助が?」
「いつの話してんだよ」

思わず笑った。

「もう普通にでけーよ」
「俺ん中じゃ小学生くらいで止まっとる」
「お前、最後に会ったのいつだっけ」

仁王が考える。

「俺が中学んときかのう」
「じゃあそりゃ止まってるわ」

白石が二人を交互に見る。

「仁王くん、弟くんにも会ったことあるん?」
「あるある。こいつん家行ったらおったし」

丸井は昔のことを思い出していた。
弟たちは、よく丸井の後をついてきた。年が離れている分、余計にそうだったのかもしれない。
近所の公園へ行けば来る。コンビニへ行けば来る。テニスの練習へ行こうとすれば、玄関まで見送りに来たり、そのままついて行こうとしたり。鬱陶しくて追い返したことも何度もある。
転んで泣いていれば宥めておんぶをしてやる。喧嘩をすれば両方から話を聞いた。
親がいないときに熱を出せば、冷蔵庫から保冷剤を引っ張り出して看病もした。

両親も共働きで忙しいし、自分しかいなかったのだから、自分がやるしかなかった。
ただそれだけだった。それでも苦に感じたことは一度もない。

「そういやあいつ、昔ブン太のラケット勝手に触って怒られとったよな」
「あったなー」
「泣かしたじゃろ」
「泣かしてねーよ。勝手に泣いたんだよ」
「同じやき」
「違うっつーの」

白石が笑っている。

「想像つかんなあ」
「何が?」
「丸井くんが弟くん怒っとるとこ」
「普通に怒るよ。兄弟だぞ」
「でも面倒見とったんやろ?」

丸井は答えようとして、やめた。そんな大層な話ではない。

「まあ」

代わりに酒を飲む。

「俺、兄貴だし」

話題はそのうち別のものへ移った。
仕事の話。仁王が次に行きたいキャンプ場の話。白石が最近買ったコーヒー豆の話。
弟の結婚なんて、その日の会話のほんの一部だった。

夜が更けて、丸井は白石の家を出た。仁王とは途中まで同じ電車だった。並んで座り、それぞれスマートフォンを見ていた。何駅か過ぎたところで、仁王が唐突に言った。

「俺らも歳取ったのう」

丸井は顔を上げた。

「何だよ急に」
「お前さんの弟が結婚するんじゃろ。しかも下の」
「だから?」
「俺らが中学んとき、あいつ何歳じゃった?」
「いくつだったかなあ」
「それが結婚」

仁王が窓の外を見る。暗い窓に車内が映っていた。

「そりゃ歳も取るぜよ」
「おっさんみてーなこと言うなよ」
「おっさんじゃろ、もう」
「一緒にすんな」
「同い年じゃき」

くだらない。ブン太は笑った。
それで話は終わった。

数日後。

母親から、昔の写真が送られてきた。実家の整理をしていて見つけたらしい。丸井兄弟、まだ三人とも子どもだった。丸井は中学生。弟二人は、その両側にいる。

一人は変な顔をしていて、もう一人は丸井の腕にしがみついていた。丸井自身はカメラを見ていない。何か別のものを見て笑っている。写真の中の弟は、小さかった。

少しして、弟からまたLINEが来た。

『式の日決まった』

日付が送られてくる。丸井はスマートフォンのカレンダーアプリを開いた。まだずっと先だった。予定を入れる。タイトルをどうするか少し迷って、

『結婚式』

とだけ入力して、画面を閉じる。

母親から送られてきた写真をもう一度開いた。小さな弟が、自分の腕にしがみついている。あの頃は、いつかこいつが結婚するなんて考えたこともなかった。

当たり前だ。自分だって中学生だった。

丸井は写真を保存した。それから弟とのトーク画面を開く。

『了解』

一度送ってから、少し考える。もう一通。

『ちゃんと休み取っとく』

すぐに既読がついた。

『よろしく』

そのあとに、ふざけたスタンプが一つ。丸井も同じシリーズのスタンプを返した。

弟が結婚する。
何度考えても、まだ少し変な感じがする。でも、悪くなかった。むしろ、式の日、どんな写真を撮ろうか。そんなことを考え始めている自分に気づいて、丸井は満足気に少し笑った。