なんもない夜

仁王から三人のグループLINEに連絡が来たのは、金曜の夕方だった。
『今日、暇?』それだけだった。
丸井が『暇』と返し、少し遅れて白石も『俺もいけるで』と続いた。待ち合わせは新宿。三人で何度か使ったことのある居酒屋。

丸井が店に着いた時には、仁王はもう奥の席に座っていた。壁際の四人掛け。上着を隣の椅子に置き、テーブルにはハイボールと、ほとんど手をつけていない枝豆がある。

「早くね?」

声をかけると、仁王はスマートフォンから顔を上げた。

「三十分前からおる」

時刻はまだ七時前だった。丸井は何か言い返しかけて、やめた。
仁王の様子がおかしいとは思わなかった。ただ、すでに半分ほど減っているグラスが目についただけだった。

ほどなくして白石も来た。三人で乾杯をして、いつも通り丸井が適当に料理を頼む。
そこからは、いつもと大して変わらなかった。丸井が最近仕事で会った妙な客の話をすれば、仁王は笑う。白石が育てている植物の鉢を一つ増やしたと言えば、「また増やしたん」と呆れた顔をする。

丸井が席を外した隙に唐揚げを一つ取ったことまで、いつも通り。戻ってきた丸井が皿を見て、すぐに仁王を睨んだ。

「仁王。俺の唐揚げ食っただろ」
「さあの」
「一個減ってる」
「白石じゃろ?」
「俺ちゃうで」

あっさり白石に梯子を外されても、仁王は涼しい顔をしていた。丸井が文句を言いながら残りの唐揚げを自分の側へ寄せる。それを見て、仁王が少し笑った。

本当に、いつも通りに見えた。

違和感に先に気づいたのは白石だった。仁王の二杯目が空になった頃だった。仁王は酒に弱くない。それなりに飲む。けれど今日は、飲み方が違った。

会話が途切れるとグラスに手が伸びる。飲みたいというより、手持ち無沙汰を埋めているような飲み方だった。
一方で、料理は減っていない。白石は向かいに座る仁王を何度か見たが、何も言わなかった。

聞けば、おそらく「何が?」と返ってくる。そういう時に無理に口を割らせても仕方がないことを、白石はもう知っていた。

三杯目の仁王のハイボールが来た。

丸井が何かを話している。仁王は聞いていた。少なくとも、聞いている顔はしていた。けれど話の途中で一度、返事が遅れた。ほんの一拍。丸井も気づかず、そのまま話を続ける程度の間だった。仁王自身も気づいていなかった。白石だけが、黙ってグラスを置いた。

そのあと、仁王のスマートフォンが震えた。伏せてあった端末を持ち上げる。通知を確認した瞬間、仁王の目元から表情が消えた。

ほんの一瞬だった。

すぐに画面を消し、何事もなかったようにテーブルへ戻す。けれど、今度はその様子を丸井も見て、何か気づいた。しばらくして、丸井が話を止めた。

「仁王」
「ん?」
「今日つまんねーな」

仁王が顔を上げた。

「喧嘩売っとる?」

普段なら、そこからもう一つ何か返ってくる。けれど今日はそれだけだった。丸井は仁王の顔をじっと見る。

「なんかあった?」
「別に」

返事だけは早かった。白石は口を挟まなかった。
仁王はテーブルの上のグラスを取った。氷しか残っていない。それでも口元へ持っていきかけて、ようやく空なのに気づいたらしい。

グラスを戻す。その小さな動作を、二人とも見ていた。

「……何じゃ」

と、仁王が言うが、丸井は何も言わない。白石も同じだった。問い詰められるより、その沈黙のほうが居心地が悪く、仁王は椅子の背にもたれて、視線を逸らす。

店内は騒がしかった。隣の席では大人数のグループが笑っている。厨房から皿の重なる音が聞こえる。誰かの注文を復唱する店員の声もする。そんな中で、自分たちのテーブルだけが妙に静かだった。

「……仕事で、ちょっとやらかした」

口にしてみれば、ひどく簡単な話だった。
数日前、自分の担当している案件で問題が出た。最初に気づいた時点では、大したことではないと思った。原因にも見当がついていた。

自分で直せる。

そう判断した。普段なら、それで終わることだった。誰かを巻き込むより、自分で処理したほうが早い。余計な確認を増やす必要もない。
仁王はそういう判断をすることが多かったし、それで困ったこともほとんどなかった。今回も、そのつもりだった。けれど、読みを外した。

話している間、仁王はほとんど二人を見なかった。
テーブルの端に溜まった水滴を指でなぞりながら、必要なことだけを話した。

一つ直せば終わると思っていた問題は、別の箇所にも影響していた。それに気づいた頃には、自分一人で片づけられる範囲を越えていた。上司へ報告し、上司から別部署にも連絡が入った。何人かが残業になった。
そして明日、土曜日にも対応することになった。

「仁王くんも出るん?」

白石が初めて口を挟んだ。

「出る」

それは当然だった。自分が原因なのだから。仁王にとって、それ自体は何でもなかった。休日が潰れることも、上司にかなり厳しく言われたことも、どうでもよかった。

失敗した。怒られた。なら直せばいい。

普段なら、そこで頭を切り替えられる。今日もそのつもりだった。できなかった理由は、同じ案件を手伝っている人が、明日一緒に出ることになったことだった。その同僚は仁王より少し年上で子どもがいる。土曜日は家族で出かける予定だったらしい。そのことを仁王が知ったのは、今日の夕方だった。
謝った。自分の判断が遅かったことも、自分だけで抱えたことも。全部自分のミスだった。

しかし、相手は仁王を責めなかった。
むしろ笑って、「大丈夫ですよ。普段、仁王さんには助けてもらってますから。明日、一緒に片づけましょう」
それで終わった。

そこまで話して、仁王は黙った。丸井はさっきまで自分の側へ避難させていた唐揚げの皿を、いつの間にかテーブルの中央へ戻していた。白石も何も言わない。仁王はそれを見ていなかった。

怒られたほうが、まだよかった。
帰りの電車でも、店に来るまでの道でも、何度もそう思った。迷惑だと言われたなら、その通りだと受け止められた。予定があったのに、と文句を言われたなら、謝れた。

けれど相手は、自分のほうが予定を潰されたにもかかわらず、仁王を気遣った。それが妙に残った。

自分ならできると思った。報告するほどではないと思った。その判断の結果、他人の時間を奪った。自分だけならよかった。自分が土曜に働けば済むなら、何も引きずらなかった。

しかし、そうではなかった。

「……最初に言っとけばよかっただけなんじゃ」

仁王がぽつりと言った。
誰に聞かせるでもない声だった。水滴をなぞっていた指が止まる。

「水曜の時点で共有しとったら、たぶん昨日には終わっとった」

仁王自身、分かっている。
今さら考えても仕方がない。時間は戻らない。だから明日行く。早く終わらせる。次から同じことをしないよう、対応方法も上司と話した。やるべきことは全部決まっている。

それでも、頭の中だけがそこから先へ進まなかった。

白石はしばらく黙っていた。やがて、仁王の前に丸井が頼んだ唐揚げの皿を寄せる。

「まあ、仁王くんが悪かったんやろな」

仁王が顔を上げた。
慰められると思っていたわけではない。それでも、あまりにそのまま言われて、少しだけ目を瞬いた。

白石は穏やかな顔をしていた。責めているわけでもない。

「……そうじゃな」

それだけだった。
失敗ではなかったことにしてくれるわけでも、仕方なかったと言ってくれるわけでもない。
それが、仁王にはありがたかった。
丸井はしばらく黙っていたが、やがて仁王の前に寄っている唐揚げの皿から唐揚げを一つ取り頬張った。

「もう謝ったんだろ」
「謝った」
「明日も行くんだろ」
「あぁ」
「じゃあ、今日のお前がずっと暗くても、その人の休み戻ってこねーじゃん」

仁王は丸井を見た。

「……ブン太」
「何」
「お前さん、言い方」
「だってそうだろ」

丸井は悪びれなかった。仁王は何か言い返そうとして、やめた。

腹が立つ。けれど、言っていることは分かる。自分でも、どうすればいいのか分からなかったわけではない。
明日、会社へ行く。仕事を終わらせる。助けてもらったことに礼を言う。次から同じことをしない。

それしかない。
ただ、それで今日の失敗まで消えるわけではないことが、どうにも気持ち悪かった。

仁王はそういうものを、いつもなら自分の中で勝手に処理できた。
失敗したなら次。間違えたなら直す。嫌なことがあったら自分で気持ちの整理をつけて寝る。

誰かに聞いてもらう必要など、ほとんどなかった。
今日だって、二人を呼んだ時には話すつもりなどなかった。しかし、一人で帰って、一人で考えるのが面倒だった。

たぶん、それだけだった。だから連絡した。

「仁王くん」

白石の声で顔を上げる。

「腹減ってるやろ」
「別に」
「今日ほとんど食べてへんやろ」

元々食べる方ではないが、今日は特に食べていないことに気づいた。唐揚げだけは一つ食べた。ブン太のものを。

「……茶漬け」

仁王が言った。

「食べるん?」
「食う」
「じゃあ頼むで」

白石が店員を呼んだ。丸井が横から、自分も頼むと言い出した。ついさっきまで散々食べていたはずなのに。
仁王はそれを聞きながら、ハイボールを飲んだ。飲み始めた時よりちゃんと味がした。

店を出たのは十時半を過ぎ。夜の新宿はまだ明るかった。
人の流れに混じって、三人で駅へ向かう。仕事の話はもうしなかった。丸井がコンビニの新作菓子の話をして、白石がそれを聞いている。仁王はその隣を歩いた。

気分が晴れたわけではない。明日になれば、また嫌でも仕事の失敗を思い出す。会社へ行けば、相手にも会う。たぶんもう一度、自分の判断を後悔する。

それでも、店へ入る前よりは少しだけ頭の中が静かだった。

「じゃあな」

改札の前で丸井が言った。仁王も軽く手を上げる。そのまま行こうとしたところで、後ろから声が飛んだ。

「仁王」

振り返る。

「明日寝坊すんなよ」
「しない」
「今日飲むペース早かったし」
「三杯くらいじゃろ」
「五杯やで」

白石が訂正する。仁王は眉を寄せた。

「たいして変わらん」
「あと」

丸井が少し笑った。

「今日の仁王、やっぱつまんなかった」

仁王は数秒、丸井を見た。

「……ブン太」
「何」
「覚えとれよ」

今度は丸井が笑った。白石も隣で笑っている。仁王はそれ以上何も言わず、二人に背を向けた。

帰りの電車で、仕事の通知が一件届いた。明日の対応についてだった。
仁王は内容を確認して、短く返信をする。そのあと、少し迷った。

例の同僚とのやり取りを開く。最後に届いているのは、夕方のメッセージだった。

『明日、一緒に片づけましょう』

仁王はそれをしばらく眺めた。謝罪はもうした。何度謝っても、たぶん相手の予定は戻らない。丸井の言葉を思い出す。腹は立つが、その通りだった。

入力欄を開く。

『明日、よろしくお願いします。助かります』

それだけ送った。
窓に自分の顔が映っている。まだ、いつもの顔ではなかった。
仁王はそれを眺めて、スマートフォンをポケットへ入れた。

珍しく一人では片づかなかった。だから二人を呼んだ。しかし、それを認める気は、まだなかった。
けれど次に同じような夜が来たら。たぶんまた、『今日暇?』と仁王は送るだろう。