Wasted Bible

白石が酔い潰れるところを、仁王は見たことがなかった。酒に強い、というのとは少し違う。もちろん弱くはない。ビールも日本酒もワインも飲むし、三人で集まれば仁王や丸井と同じくらいのペースでグラスを空けることもある。

ただ、白石は自分がどれだけ飲めば酔うのかを知っていた。酔う前に水を頼む。空腹なら先に何か腹に入れる。明日の予定から逆算して、何時までに店を出ればいいかを考える。楽しくなったからもう一杯、という飲み方をあまりしない。

だから、潰れない。少なくとも仁王は白石のことはそういう人間だと思っていた。

その日は、白石がここ数か月抱えていた仕事がようやく片付いた日だった。詳しいことは仁王も知らない。ただ、三人のグループに珍しく白石から、

『ほんま仕事疲れたわ』

とだけ送られてきた。少しして丸井が『お疲れ』と返し、その直後に『じゃあ飲む?』と続けた。そのやりとりに気づかず、少し遅れて仁王が『行く』と返した頃には、もう店まで決まっていた。

金曜の夜だった。
白石が店に着いたのは、約束より十分ほど遅れてからだった。

「ごめん、待った?」

そう言って席に滑り込んできた白石は、仕事帰りの格好のままだった。いつもと大して変わらない。けれど椅子に座った瞬間、ほんの少しだけ肩が落ちたのを仁王は見逃さなかった。

「お疲れ」

丸井がメニューを渡す。

「仕事大変だったの?」
「ここ一ヶ月ぐらいな。ほんましんどかったわ」

白石はメニューを開きながら笑った。

「長かったわ」

その一言だけが、妙に実感を伴っていた。最初のビールは、三人ほとんど同時に空になった。白石はいつもより少しだけ早かった。とはいえ、その程度だった。

料理が来れば食べるし、話し方もいつもと変わらない。仕事の話は最初の十分ほどで終わって、いつの間にか丸井が最近買ったカメラの話になり、そこから仁王のキャンプ道具の話になった。

丸井がスマホに入っている写真を見せる。仁王が横から余計なことを言う。白石が笑う。

いつもの金曜だった。ただ、いつもと違ったのは、白石が時計をほとんど見なかったことだった。
二杯目を頼むとき、白石は日本酒を選んだ。その次は、丸井が頼んだものを一口もらった。

「これ結構うまいぜ」

差し出されたグラスを、白石は何のためらいもなく受け取った。一口のつもりが、丸井が別の話を始めたせいで、そのまま白石の手元にしばらく置かれていた。少しして仁王が頼んだ酒が来る。

「これ白石好きそう」
「ほんま?」

仁王から白石へ。またグラスが渡る。
普段なら、白石は自分が何杯飲んだかをだいたい把握している。けれどその夜は、自分で頼んだ酒と、人から渡された酒の境目が曖昧になっていた。誰のグラスだったのかも、そのうちどうでもよくなった。

仁王が違和感を覚えたのは、白石が笑った時、声がいつもより大きいなと感じだことだった。そんな周りに迷惑をかけるぐらい目立つほどではない。顔もそこまで赤くなっていなかった。ただ、長く付き合っていれば分かる程度の、小さなずれだった。

仁王は向かいの白石をしばらく眺めたが、白石は気づかない。それどころか、テーブルの端にあったグラスを取ろうとしている。仁王は先にそれを取った。

「白石」
「ん?」

白石が顔を上げる。焦点は合っている。けれど、普段より目元が緩い。

「お前さん、今日何食うた?」

唐突な問いに、白石が眉を寄せた。

「何って?」
「昼」
「昼?」

考えている。その時点で、仁王は嫌な予感がした。

「……ああ」
「食うた?」
「食べる時間なくて」

丸井が顔を上げた。

「は?」
「いや、ほんまは食べるつもりやってんけど。午後ずっと立て込んでて」
「じゃあ朝から?」
「朝は食べたで」
「何時」
「七時くらい」

仁王は無言で白石の前から酒を遠ざけた。白石がそれを目で追う。

「なんで取るん」
「没収」
「まだ残っとるやん」
「お前さん、今までほぼ空きっ腹で飲みよったんか」
「料理食べたやろ」

確かに食べてはいた。けれど三人で取り分けた程度だ。普段の白石なら、飲む前にもう少しまともに腹に入れている。丸井が呆れたように息を吐いた。

「それ先に言えよ」
「なんでや」

白石は本気で分かっていない顔をした。仁王と丸井が顔を見合わせる。その顔を見て、白石が不服そうに眉を寄せた。

「何やねん。俺、別に酔ってへんで」

丸井が吹き出した。仁王も堪えられなかった。

「誰もまだ酔ったとは言うとらん」

白石が黙る。そのあと自分でもおかしくなったのか、俯いて笑い始めた。普段ならそこで終わる。けれど、その日はなかなか笑いが収まらなかった。

仁王は白石の前に水を置いた。

店を出る頃には、白石は自分で立てると言い張る程度には酔っていた。
実際、立てはした。椅子から立ち上がり、上着を着て、鞄も持った。会計のときには財布も出した。

ただし、店を出て数歩歩いたところで、仁王の肩にぶつかり、白石がよろめいた。

「おっと」

咄嗟に仁王が白石の腕を掴む。白石は何事もなかったように姿勢を戻した。

「大丈夫や」
「何が」
「歩けとるで」
「誰も聞いとらん」

また先回りしている。仁王が笑うと、白石は少しむっとしたようだった。

「ほんまに大丈夫やって」

そう言って歩き出す。今度はまっすぐだった。その後ろを丸井と仁王が歩く。五メートルほど進んだところで、白石が突然止まった。

「……ちょお待って」
「どした?」
「なんか」

白石は足元を見た。しばらく黙ってから、

「地面動いとるで。あはははは」

白石のその姿に、丸井がしゃがみ込むほど笑った。仁王は白石を駅へ向かわせるのは諦めた。
幸い、白石の家はそこまで遠くない。タクシーに押し込んで、仁王と丸井も一緒に乗った。白石は後部座席の真ん中で、しばらく窓の外を見ていた。車が大きく曲がるたびに身体が傾く。

右に曲がれば丸井へ、左に曲がれば仁王へ。二度目に仁王の肩へ頭が落ちてきたとき、仁王は押し返さなかった。
白石の髪から、店の煙と整髪料の匂いがした。普段なら、人にこんなふうに体重を預けることはまずない。眠っているのかと思ったが、信号で車が止まると白石が小さく目を開けた。

「……仁王くん」
「どした」
「今日、楽しいな」

あまりにも普通の声で言うから、仁王は一瞬返事に困った。

「そりゃよかったのう」
「うん」

白石はそれだけ言って、また目を閉じた。向こう側で丸井が笑っている気配がした。

白石の部屋に着く頃には、日付が変わっていた。玄関を開けるところまでは本人にやらせた。
鍵の場所も分かっているし、暗証番号も間違えない。ただ、玄関に入った途端、白石は壁に手をついて動かなくなった。外にいる間はそれなりに保っていたらしい。仁王と丸井で両側から支え、どうにかリビングまで連れていく。

白石はソファに座ると、深く背にもたれた。いつもなら二人が勝手に冷蔵庫を開ければ一言くらい言うのに、丸井が水を取り出しても何も言わない。仁王が上着を脱がせても抵抗しなかった。完全に電池が切れていた。

白石は渡された水を半分ほど飲んで、そのまま目を閉じた。さっきまで店にいた人間とは思えないほど、部屋は静かだった。時計の針の音まで聞こえそうだった。

仁王はテーブルの上に転がっていたリモコンを端へ寄せた。丸井が窓際でスマホを見ている。

「まだ終電ある」
「ん」
「帰る?」

仁王も時刻を確認した。日付は変わっているが、確かにギリギリ終電はあり、急げば間に合う。
白石はもう眠っている。水も飲ませたし、横向きに寝かせておけば大丈夫だろう。二人が泊まる理由もない。

仁王は椅子に掛けた自分の上着を取った。丸井も鞄を肩に掛ける。

そのときだった。

「……帰るん?」

その声がして、仁王と丸井は振り返って白石を見たが、白石は目を閉じたままだった。

「起きた?」

返事はない。寝言かと思った。けれど、少しして白石がもう一度言った。

「二人とも、帰るん?」

今度はさっきよりも小さかった。普段の白石なら、そんなことは聞かない。
終電の時間を調べて、二人を駅まで送り出す。泊まると言えば布団を出すだろうが、自分から引き留めることはない。

仁王は手に持った上着を見た。

「帰ろうと思いよったけど」

白石が薄く目を開けた。

「……泊まったらええやん」

それだけ言って、また目を閉じる。数秒もしないうちに、呼吸がゆっくりになった。
丸井が口元を押さえている。笑うのを堪えていた。

仁王は上着を元の椅子に掛けた。

「まあ」

丸井も鞄を下ろす。

「この状態で一人にすんのもな」
「吐かれても困るしのう」
「それな」

理由はいくらでもあった。二人とも、それ以上は言わなかった。

翌朝。
仁王が目を覚ましたときには、白石はまだ寝ていた。昨夜あれだけ酔っていたくせに、部屋はいつもと同じだった。
テーブルには読みかけの本が置いてあり、窓辺には植物が並んでいる。キッチンも片付いている。そこに昨夜のグラスと、仁王と丸井が使ったものだけが増えていた。

仁王は勝手知ったるキッチンでコーヒーを淹れていると、しばらくして丸井も起きてきた。最後に白石が寝室から出てきたのは、もう昼に近い時間だった。

ひどい顔をしていた。

「……おはようさん」

「おはよう」

白石は返事をせず、水を一杯飲んだ。それから仁王を見て、丸井を見る。

「俺、昨日」
「俺らが連れてきた」
「……ほんま?」
「タクシー」

白石は額を押さえた。記憶を探しているらしい。しばらくして諦めたように椅子へ座った。

「俺、そんな飲んだ?」

仁王と丸井が同時に白石を見る。

「飲んだじゃろ」
「でも、自分で頼んだん三、四杯くらいやで」
「俺の飲んだ」
「俺のも」

白石は昨夜の記憶を一つずつ拾い直すように、しばらく宙を見ている。

「……あ」

何か思い出したらしい。

「あと昼飯」

仁王が言うと、白石はますます嫌そうな顔をした。

「それやん」
「それだけかのう」
「何?」
「いや」

仁王はコーヒーを飲んだ。
たぶん、それだけではない。長く張り詰めていたものが、ようやく終わったこと。翌日が休みだったこと。久しぶりに三人で集まったこと。飲んだ酒がうまかったこと。どうでもいい話をしているうちに、時計を見ることすら忘れていたこと。

白石自身は、たぶん気づいていない。気が緩んでいたのだ。仁王と丸井の前で。

「俺、なんか変なこと言うてへんかった?」
「……別に。普通じゃったよ」
「その間なんやねん」
「気のせい」
「絶対なんかあったやろ」

丸井が笑い出す。白石はしつこく聞いてきたが、二人とも最後まで教えなかった。

酔っていないと言い張ったことも。地面がおかしいと言ったことも。帰るのかと二度も確かめたことも。泊まったらいい、と自分から二人を引き留めたことも。

それから何日か経って、また三人で白石の家で飲んだ。

その夜、終電が近づいた頃。以前なら誰かが一度は時計を見ていたはずなのに、誰も見なかった。白石も何も言わなかった。仁王の上着は椅子に掛かったままで、丸井の鞄も床に置かれたままだった。

いつからそうなったのかは、三人とも覚えていない。ただ、白石の家にはいつの間にか、客用の歯ブラシが二本置かれるようになっていた。