コートに立つ日、選ばなかった道
謙也と別れたのは、二十二時を少し過ぎた頃だった。
久しぶりに四人でテニスをして、そのまま夕食を食べた。
明日は仕事だというのに、二時間しっかりコートを走り回ったせいで、全員もう若くないだの、明日の筋肉痛が怖いだのと散々言いながら、それでも食事の間はずっと機嫌がよかった。
大阪へ戻る謙也とは駅で別れた。
「次、大阪な」
「ほんまに来いや」
白石は「日程決まったら連絡して」と言い、仁王は軽く手を上げただけだった。
謙也を見送り、じゃあそのまま解散、となるところで丸井が言った。
「俺、もうちょい飲みたい」
「明日仕事やろ?」
「一杯だけ」
結局、三人でもう一軒入ることになった。
もっとも、本当に長居するつもりはなかった。全員疲れていたし、酒より水が欲しいくらいだった。駅近くの店へ入り、奥のテーブルに座る。
丸井はビール。白石も同じ。仁王だけ、しばらくメニューを眺めたあとでハイボールにした。
「明日絶対身体痛い」
注文を終えるなり、丸井が言った。
「もう痛いじゃろ」
仁王は足を伸ばした。
「それは今の疲労。明日は別」
「嫌なこと言うなあ」
白石も背もたれに身体を預ける。さすがに疲れているらしい。
コートにいる間はそう見えなかったが、店に入って気が抜けた途端、三人とも一気に身体が重くなった。
飲み物が届き、軽くグラスを合わせる。何に乾杯するのかは誰も言わなかった。
一口飲んで、丸井が息を吐く。
「でも楽しかったな」
「おう」「せやな」
それから少しの間、今日のテニスの話をした。
謙也はやっぱり速かった。白石は指示が多い。丸井は昔より動かない。仁王はアップが足りない。
互いに好き勝手言って、結局全員同じくらい衰えているというところへ落ち着いた。
店内のテレビではスポーツニュースが流れていた。誰も真剣には見ていなかった。野球が終わり、サッカーに変わり、そのあと海外のテニス大会の映像が流れた。
丸井が何となくそちらを見る。仁王もつられて視線を上げた。
長いラリー。速い。
今日自分たちがやっていたものとは、当然ながらまるで違う。
白石も見ていた。
「……すごいな」
画面の中でポイントが決まった。選手が小さく拳を握る。観客席が沸く。
三人ともしばらくそれを見ていた。
そして、本当に丸井が何でもないことのように言った。
「俺らさ。なんでプロになんなかったんだろうな」
仁王はテレビから丸井へ視線を移した。白石も少しだけ目を丸くしていた。
「今さら?」
「今さら」
丸井は笑った。
暗い顔はしていない。後悔しているようにも見えなかった。
ただ、久しぶりにラケットを握った。昔のようにボールを追った。
その日の最後にプロの試合が目に入った。だから、ふと思ったのだろう。
仁王はグラスを持った。
「プロになりたかったんか?」
丸井はすぐには答えなかった。テレビを見て少し考える。
「……一時期あったかなあ」
「へえ。そうなんや。知らんかったわ」
「言ってねえもん」
「俺も知らんぞ」
仁王が言うと、丸井がこちらを見る。
「お前には言ってた気がしてた」
「聞いとらん」
中学、高校、大学。仁王と丸井は、随分長い時間を知っている。
それでも、すべてを話したわけではない。進路について何となく聞いたことはあっても、プロを目指すのかどうかを真正面から話した記憶はなかった。
丸井はグラスについた水滴を指でなぞった。
「高校ん時かな。一番考えてたの」
中学の頃、立海という強豪校に進み、レギュラーになり、全国大会にも出て、U-17にも参加して、世界を見て、自分より強い選手をたくさん知った。それでも自分のテニスには自信があった。もっと上へ行けるとも思っていた。
高校へ進んでもテニスは続けた。大会にも出た。周囲から進路について聞かれることも増えた。その頃には、プロという言葉は夢ではなく、現実的な選択肢の一つになっていた。
「行けるとこまで行ってみてもいいかなって思ってた」
自分を天才的だと言う。実際、その言葉に見合うだけのものを持っていた。それだけの練習もしていた。
勝つことも好きだった。上を目指すことを怖がる男ではない。
「でも、なんか違ったんだよな」
丸井は笑った。
「何が?」
白石が聞く。
「全部」
遠征する。練習する。身体を作る。食事を管理する。結果を出し続ける。
それ自体が嫌だったわけではない。必要ならできるとも思っていた。ただ、それを知れば知るほど、自分が欲しい生活とは少しずつずれていった。
「俺、テニスだけをやりたいわけじゃなかったんだよな」
丸井は料理を一つ摘まんだ。
「お菓子も作りてえし、普通に飯食いたいし。友達とも遊びたいし。家帰ったら弟らいたし」
高校生だった自分には、どちらも魅力的に見えた。
テニスで世界へ行く人生。それ以外のものも全部持っていく人生。
両方を同じだけ選ぶことは難しい。
「だから、やめたん?」
白石が聞く。丸井は少し考えた。
「やめたっていうか。選ばなかった、かな」
それが一番近かった。
プロを諦めた日があるわけではない。挫折した試合もない。誰かに無理だと言われたわけでもない。
ある時、自分の進路希望からプロという文字が消えた。
ただそれだけだった。
「白石は?」
丸井が聞いた。
「俺?」
「お前、プロ考えなかった?」
白石はグラスを置いた。
「考えへんかったわけではないで」
「やっぱり?」
「選択肢にはあった」
けれど、白石の場合は丸井より少し早かった。
高校へ進んですぐの頃、テニスを仕事にする未来についてかなり冷静に考えていた。
プロになれるか。
それだけではなかった。
プロになったあと、何年続けるのか。
怪我をしたらどうするのか。引退したあと何をするのか。自分はどんな場所に住んで、どんな生活をしたいのか。
「考えすぎじゃね?」
丸井が笑う。
「進路やで?そら考えるやろ」
「白石らしいの」
仁王も笑った。白石は少し不満そうだった。
「二人が考えなさすぎなんちゃう?仁王くんは?」
二人の視線が仁王へ向いた。
「俺?」
「そう」
仁王は酒を飲んだ。
「まだ俺の番じゃなか。白石の話が終わっとらん」
逃げた、と丸井が笑った。白石も笑ったが、話を戻した。
「俺はな、テニスは好きやったんよ」
「過去形?」
「ああ、もちろん今も好きやで」
今日だって楽しかった。それは間違いない。
けれど、好きだから職業にしたいとは思わなかった。白石にとって、その二つはかなり早い段階で別れた。
「テニスが生活の全部になるんは、なんか違うなって」
テニスをしたい。植物も育てたい。好きなものを食べたい。仕事をして、休みがあって。誰かと飯を食べる日も、一人で過ごす日もある。そういう生活の中にテニスがある方が、自分には合っていると思った。
「せやから大学行って、普通に就活した」
「後悔したことある?」
丸井が聞いた。白石は少し考えた。
「ないな」
答えは早かった。
「全然?」
「全然って言われたら……プロの試合見て、もし続けとったらどこまで行けたんやろ、とは思うで」
大会を見る時。昔戦った相手の名前を見かけた時。自分より先へ進んだ選手を知った時。
別の道を選んだ自分が、もしあのまま進んでいたら、という想像くらいはする。
「でも、そっち行っとけばよかったとは思わへん」
白石はそう言った。
「今の生活、結構好きやし」
それを聞いて、丸井が頷いた。仁王も何となくわかった。
白石はたぶん、本当にそうなのだろう。選んだあとで、選ばなかったものをいつまでも見続けるタイプではない。
「で。仁王くんや」
白石が仁王を見る。
「逃げられへんで」
「別に逃げとらん」
「プロ、考えた?」
丸井も聞く。仁王はしばらく黙った。テレビでは、まだ試合が続いていた。
画面の中の選手がサーブを打つ。仁王はそれを眺めた。
「まあ、考えたことはあるの」
「仁王って勝ちへの執着すごいもんな」
いつからプロを目指さなくなったのかと聞かれても、答えられなかった。
丸井のように、かなり現実的に考えた時期があったわけでもない。白石のように、明確に別の人生を選んだ感覚も薄い。
中学の頃は、テニスが面白かった。
できなかったことができるようになる。相手の技術を見て、考える。
真似る。崩す。騙す。試す。勝つ。
全部面白かった。高校でも続けた。
「まあ、二人と同じでテニスだけになりたくなかったんかもしれん」
二人が黙った。
仁王自身、口にしてから少し考えた。たぶん、それが近い。
テニスは好きだった。かなり好きだったと思う。だから続けられた。
でも、好きなものが一つだけである必要はなかった。
面白そうなことがあればやってみたい。知らないものも見たい。一つの競技を極めるために、他のものを削っていく。
それが悪いとは思わない。そうした人間を、すごいとも思う。ただ、自分はそこまでして一つの場所にいたいとは思わなかった。
「プロになるためにテニスするようになったら、たぶん俺は飽きる」
仁王の言葉に丸井が少し笑った。
「それはわかる」
「じゃろ?」
「仁王くん、できんことやっとる時が一番楽しそうやもんな。イリュージョンとか、まさにそうやん」
「あれ、勝つためだけにやってたわけじゃねえだろ」
仁王は否定しなかった。確かにそうだった。
できそうだからやった。できたら面白そうだった。相手が驚けば、もっと面白かった。
そういうテニスも好きだった。
「だからプロにはならんかった……ということにしとくか」
丸井が笑った。
「最後に逃げんなよ」
「今考えたんじゃから仕方ないじゃろ」
「でも、それっぽいで」
白石も笑っていた。
三人とも、それぞれ違った。
丸井は、一度プロへ進む自分をかなり現実的に想像して、それとは別の人生を選んだ。
白石は、テニスを仕事にすることと好きでいることを早くから分けて考えた。
仁王は、テニスを人生の全部にする理由を最後まで見つけなかった。
誰も、テニスが嫌いになったわけではない。才能がなかったからでもない。大きな怪我をしたわけでもない。
ただ、選ばなかった。
「でもさ」
丸井がテレビを見ながら言った。
「越前とか、すげえよな」
「そらな」
白石が答える。
「ああいう人生をほんまに選んで、続けとるんやもんな」
仁王も画面を見た。
自分たちとは違う道を選んだ人間がいる。
それを羨ましいとは思わない。下に見る理由など、もちろんない。
ただ、自分には選ばなかった道を歩き続けている。それは素直にすごいと思った。
「俺、無理だわ。今日二時間で死にそうだったし」
白石が吹き出した。
「話のスケール急に小さなったな」
「だって現実だろ」
「お前さん、途中で無理言うて何本諦めた?」
「数えてねえよ」
「俺は数えとったよ」
「嘘つけ!」
三人で笑った。
さっきまで少しだけ真面目だった空気が、あっさり崩れた。
それでよかった。
丸井は残っていたビールを飲む。
「でも今日、楽しかったな」
白石が頷く。
「楽しかった」
仁王も、
「そうじゃの」
と答えた。
それだけだった。
もしプロになっていたら、もし違う進路を選んでいたら。
今とはまるで違う日曜を過ごしていたかもしれない。
海外にいたかもしれない。大会に出ていたかもしれない。そもそも三人でこうして同じ店にいることすら、なかったかもしれない。
けれど、それを惜しいとは思わなかった。
今日の午後。久しぶりにコートへ立った。
謙也がいて、四人でボールを追った。
昔ほど身体は動かなくて、何度も笑った。
それでも最後の一本まで、誰もやめようとは言わなかった。
今の三人にとって、テニスはもう人生の中心ではない。仕事でもない。勝たなければならないものでもない。
それでも、なくなってはいなかった。
「そろそろ帰る?」
白石が時計を見た。
「帰る」
丸井が立ち上がろうとして、顔をしかめた。
「痛っ」
「何じゃ」
「いや、脚が」
「もう来たん?」
白石が笑う。
「来た」
「明日はもっとやき」
「言うなって!」
仁王も立った。自分の足も、さっきより重い。
店を出る。夜の空気が少し涼しかった。
三人で駅へ向かう。
丸井が前を歩きながら振り返った。
「次いつやる?」
三人で予定を確認し始める。
テニスを職業にはしなかった。それでも、次にテニスをする日は決める。
たぶん三人とも、そのくらいがちょうどよかった。