コートに立つ日
きっかけは、白石から届いた一枚のスクリーンショットだった。
平日の夜、三人のグループLINEに突然送られてきた。都内のテニスコートの2面分の予約画面。続けて一言。
『取ったで』
丸井が最初に反応した。
『何が?』
『テニスコート。久々にテニス、するやろ?』
『やる』
日付は二週間後の日曜。午後から二時間。
丸井から返事が来るまで、ほとんど間がなかった。
仁王は少し考えた。
最近ラケットを握っていないわけではない。
三人ともテニスそのものをやめたことはなかった。それぞれのペースで、今でも時々コートに立つ。ただ、中学生の頃のように毎日ではない。当然、身体も違う。
『あ、あともう一人来るで』
『誰じゃ?』
白石から返ってきた名前に、仁王は少し意外に思った。
『謙也』
『大阪から来るんか?』
『せやで。仕事で今東京におる言うててな』
『じゃあダブルスできんじゃん』
仁王は画面を見た。
仁王、丸井、白石、謙也。中学生の頃なら、妙な組み合わせだった。
今でも十分妙ではある。
『まあ面白そうやの』
つまり、肯定だった。そこから話は進んでいく。
『組み合わせどうする?』
『当日決めたらええやろ』
『誰と組んでも一緒じゃ』
二週間後の日曜が、思ったより楽しみになった。
「暑…」
そう言いながら仁王はラケットバッグをベンチへ置いた。
夕方とはいえ、まだ日差しは残っている。昼間よりはましだが、じっとしているだけでも汗ばむ暑さだった。
白石は先にテニスコートに着いて、白石はすでに着替えを済ませ、コート脇でストレッチをしている。
その隣にいる男が、後から来た仁王と丸井を見るなり片手を上げた。
「おー!久しぶりやなあ」
忍足謙也。仁王と丸井が直接会うのは、かなり久しぶりだった。
中学生の頃より当然大人びている。
それでも、笑った顔には昔の面影が残っていた。
「久しぶりぃ!」
丸井はそう言い、仁王も軽く手を上げて答えた。
「いつから東京おるんじゃ」
「3日前。ちょっと仕事でな。明日帰るで」
「結構短いじゃん」
白石がストレッチをしながら口を挟む。
「せやけど、東京来るのは知っとったから俺が誘ったんや」
「忍足は最近テニスやっとるん?」
「たまにな。そっちは?」
「たぶん同じくらいじゃ」
「俺も前よりはやらなくなったなー」
そう言いながら丸井がラケットを出した。
四人とも似たようなものだった。テニスを職業にはしなかった。けれど完全には離れなかった。忙しい時期には何ヶ月もコートへ立たないこともあるし、少し続けてやる時期もある。それでもラケットを握れば、身体はある程度覚えている。
「とりあえず打つ?」
「ちゃんとアップしないと危ないで」
「昔はこんなんしなくても動けたのにな」
「昔と一緒にしたら明日死ぬで」
「白石が一番年寄りくさいこと言うとる」
そんなことを言いながら、結局全員きちんと身体をほぐした。
最初の十分ほどは、ひどかった。
「ブン太、飛ばしすぎじゃ」
「うるせえ!」
丸井のボールが大きくアウトする。
「…あ」
次は仁王がネットにかけた。
丸井がすぐ笑う。
「人のこと言えねえじゃん!」
「今のは調整じゃ」
「何の?」
「いろいろ」
「絶対嘘だろ」
向こうでは白石と謙也が打っている。
そちらも完璧というわけではない。ただ、長年一緒にやってきた二人だけあって、球を打つ間隔が妙に自然だった。
「懐かしいな」
丸井が小さく言った。仁王も思った。
音が懐かしい。ボールがガットへ当たる音。シューズがコートを擦る音。呼吸。ボールを追う視線。
中学生の頃とは何もかも違うのに、そこだけは変わらない。しばらく打っているうちに、身体が思い出してくる。丸井のボールが鋭くなる。仁王も狙ったところへ落ち始める。
向こうの二人も同じだった。
「やっぱ身体覚えとるもんやな。頭より先に動くわ」
白石が言った。
仁王は一球返してから、
「じゃが、昔ほどは動かん」
ボールが左右に振られる。追いつく。返す。もう一球。また追う。
三球目で丸井が諦めた。
「無理!」
「諦め早っ」
「仁王、お前わざと振ってるだろ!」
「テニスってそういうスポーツやき」
「中学生の時なら取れた!」
「今は?」
「無理!」
堂々と言い切ったので、全員笑った。
三十分ほど打ったところで、一度休憩になった。四人ともベンチへ戻る。
「……つっかれたー!」
丸井がタオルを頭から被った。
「まだ三十分やで」
白石が言う。
「嘘だろ」
「ほんまや」
「俺もう一時間くらいやった気分なんだけど」
謙也も水を飲みながら笑っている。
「体力落ちたなあ」
「謙也もやろ」
「俺はまだいけるで」
「ほーう?」
仁王が謙也を見る。その目に、謙也がすぐ気づいた。
「仁王、その顔やめえや。絶対なんか企んどるやろ」
「せっかく四人おるしダブルスやるしかないじゃろ」
丸井がタオルを取る。
「やる」
さっきまで疲れたと言っていた男とは思えない。
「組み合わせはどうするん?」
謙也が聞く。
一瞬、四人で顔を見合わせた。
「俺と仁王の立海対四天宝寺でやろうぜ」
「お、ええな」
あっさり決まった。立海対四天宝寺。
中学生の頃なら、それだけで少し意味のある組み合わせだったかもしれない。
今は、ただの休日のダブルスだった。
「ちょ、待て!」
丸井の声が響いた。
「無理無理無理!」
「取りんしゃい!」
仁王が後ろから言う。
「お前が取れ!」
「前衛じゃろ。ほれ、ワンダーキャッスル、ワンダーキャッスル」
「うるせー!!」
言い争っている間に、ボールが抜けた。白石と謙也が向こうで笑っている。
「仲良うしいや」
白石のその言葉に丸井は何か言い返そうとしたが、仁王にボールを渡された。
「ほら、サーブじゃろ」
「くっそー」
口ではそんなことを言いながら、次のポイントではきちんと噛み合った。
仁王が崩す。丸井が前で決める。その形は、今でも身体に残っている。
「よっしゃ!」
丸井が振り返る。仁王もラケットを軽く上げた。
向こうでは白石と謙也が何か話している。
「何相談しとる」
仁王が聞く。
「秘密や」
白石が答えた。
「怪しいのう」
「そっちもやろ」
次のポイント。
謙也が速い。昔からそうだった。一瞬で前へ詰めてくる。丸井が反応する。返したところへ白石。仁王が拾う。また謙也。ボールが行き来する。誰も手を抜いてはいなかった。
かといって、中学生の頃のように一ポイントへすべてを賭けているわけでもない。
取れなければ笑う。いい球が来れば素直に感心する。昔より少し遅くなった身体で、それでも昔のようにボールを追う。
仁王は、それが思いのほか楽しかった。
「仁王!」
丸井の声。ボールが来る。
仁王は身体を滑り込ませるように追った。届く。打ち返す。
「ナイス!」
丸井が笑ってハイタッチをしにきた。仁王も応える。
「天才的じゃろ?」
「それ俺の台詞!」
向こうから白石と謙也が笑う声が聞こえた。
結局、勝敗はほとんどどうでもよくなった。
途中でペアを変え、仁王と白石。丸井と謙也。
次は仁王と謙也。丸井と白石。
「丸井くん前出て!」
「わかってる!」
「そこ!」
「指示多い!」
「丸井くんが動かへんからやろ!」
「白石うるせえ!」
「ブン太、白石と組むと大変そうじゃの」
仁王が笑う。謙也が横で笑いすぎてサーブを失敗した。
最後には誰がどこというのもなく、ただ打ち合い、残り時間が十分を切った頃には、全員かなり疲れていた。
「最後一本!」
白石が言う。
「一本って絶対長くなるやつじゃん」
丸井はそう言いながらコートへ戻った。仁王も戻る。謙也も。
誰も疲れたから早く帰ろうとは言わなかった。
最後のラリーは、妙に長く続いた。誰かが決めようとするたび、誰かが拾う。何度もボールがネットを越える。四人とも笑っていた。
最後は謙也のボールがわずかにラインを越えた。
「あー!」
謙也がその場に座り込む。
「終わり!」
丸井もラケットを下ろした。仁王は膝に手をついて息を整えている。白石もさすがに呼吸が苦しかった。
「……しんど」
仁王のその言葉に白石が笑った。
「しんどいもんはしんどい」
「明日の仕事やばそうやな」
謙也のその言葉に全員が顔をしかめた。
コートを出る頃には、すっかり夜になっていた。
四人で駅へ向かう。歩く速度は来た時より明らかに遅い。
「飯どうする?」
丸井が聞く。
「よう食う気になるの」
仁王が言う。
「腹減っただろ」
「まあの」
「せっかく東京来たし、なんやうまいもん食いたいわ」
「何食べたい?」
「東京っぽいやつ」
「雑だなあ」
そんな話をしながら歩く。
仁王は少し後ろから三人を見た。白石と謙也が並んでいる。その横に丸井。
中学生の頃には見なかった並びだった。あの頃は学校ごとに仲間がいた。
仁王と丸井には立海があって。白石と謙也には四天宝寺があった。
今はそれぞれ別の場所で暮らして、別の仕事をしている。それでも、こうして東京のテニスコートに四人で集まる日がある。
「仁王!」
丸井が振り返った。
「遅えよ」
「足痛い」
三人が止まった。丸井が笑う。
「もう来た?」
「来た」
白石も笑う。
「明日もっと来るで」
「嫌なこと言うな」
「仁王、ストレッチちゃんとせえへんからや」
「やったわ」
「足りんかったんちゃう?」
「お前さん白石みたいなこと言うな」
「何やそれ」
白石が笑った。
仁王は三人に追いついた。そのまま四人で駅へ向かう。
久しぶりのテニスは、昔みたいにはいかなかった。身体は重くなったし、すぐ息は上がる。たった二時間だけで、明日の筋肉痛まで想像できる。それでも、ラケットを握れば楽しかった。ボールを追えば、もう一本と思った。
昔と同じではない。同じでなくてよかった。
今の身体で。今の生活をして。今になって仲良くなった人間も一緒に。またコートに立てる。
「次いつやる?」
丸井が歩きながら言った。白石がすぐスマートフォンを出す。
「来月くらい?」
「俺大阪におるって」
「謙也はまた東京来た時でええやん」
「俺抜きでやるん?悲しいわー」
「大阪のテニスコート取ったら考えてやらんでもないぜよ」
仁王のその言葉に謙也の目が輝く。
「来てくれるん?」
「日程次第じゃ」
「俺行く」
丸井が即答した。
「早っ」
白石が笑う。
「じゃあ次、大阪やな」
次は大阪。その次はまた東京でもいい。
昔みたいに、毎日テニスをすることはもうない。
だからこそ、こういう日がたまにあるくらいが、今の四人にはちょうどよかった。