バレンタイン・キッス
二月十四日の東京は、朝から少しだけ浮ついている。
通勤途中に駅ビルを抜ければ、昨日まではなかった赤やピンク、シックなネイビーやブラウンの什器が通路を狭くしていた。ショーケースには艶のあるチョコレートが整然と並び、リボンを掛けた箱が積まれている。
仁王はその横を、ほとんど見もせず通り過ぎた。見飽きていた。
今年に入ってからというもの、仕事ではバレンタイン向けの広告やキャンペーンを嫌というほど見ている。二月十四日当日を迎える頃には、世間との温度差ができあがっていた。
午前中、職場で小さな菓子をいくつか受け取った。部署でまとめて配られたもの。取引先が置いていったもの。後輩が「皆さんで」と持ってきたもの。机の端に増えていく包みを見て、ひとつだけ開けた。食べながら資料を確認して、そのまま昼には存在を忘れた。
丸井から連絡が来たのは、夕方だった。
『今日飲まね?』
『お。ええな』
続けて白石の名前が入った。十四日だからではなく、金曜だからだろう。
仁王も短く了承を返した。
待ち合わせた店に着くと、丸井が大きな紙袋を二つ抱えていた。
「多ない?」
コートを脱ぎながら白石が言った。
「今日会社で配ってたやつ。余ったから持ってきた」
「丸井くんの会社、この時期大変そうやな」
「やばい。さすがに俺もう今年チョコ見たくねーもん」
「その割に持って帰っとるじゃろ」
最後に着いた仁王が、丸井の横を通りながら紙袋を覗く。
「これは別。食いもん捨てんのもったいねーじゃん」
仕事柄、丸井の二月は三人の中でいちばんバレンタインに近い。
企画そのものにはもっと前から関わっているし、試食もする。競合商品も見る。売り場へ出れば仕事の癖で棚を確認してしまう。だから本人にとって今日という日は、恋愛のイベントである前に繁忙期の終盤だった。
そう言いながらも、席についてコートを脱いだ丸井の鞄には、会社のものとは明らかに違う箱が入っていた。
仁王は気づいた。白石もたぶん気づいた。二人とも、しばらく何も言わなかった。
注文した料理が揃い始める。
一週間分の仕事を終えた金曜の夜だった。
白石は最近担当した案件の話をして、丸井は新商品の試食が続いて味覚がおかしくなりそうだと愚痴をこぼした。仁王は聞いているのかいないのかわからない顔で酒を飲み、ときどき話の端だけ拾って混ぜ返す。
いつもの三人だった。
違うのは、テーブルの端にチョコレートがあることくらいだった。
丸井が紙袋から一箱取り出した。
「これ食う?」
「店で開けてええん?」
「別にいいだろ」
「ブン太」
仁王が箱を指した。
「そっちじゃないぜよ」
丸井の手が止まった。白石が吹き出す。
「やっぱり仁王くんも気づいてた?」
「何が」
「丸井くん。何が、やないやろ」
二人の視線の先を追って、丸井が自分の鞄を見た。
会社の商品とは違う、紺色の細い箱が覗いている。
「ああ、これ?」
取り出した途端、顔が少しだけ緩んだ。その変化のほうが箱よりわかりやすかった。
「彼女さんから?」
白石が聞く。
「昨日届いた」
遠距離の彼女から宅配便で送られてきたものだった。
当日に受け取れる保証がないからと、一日早く指定してあったらしい。
「ええやん。幸せそうやなー」
「まあな」
丸井は箱を一度眺めて、また鞄へ戻した。
仁王が眉を上げる。
「食わんの?」
「これは家で食う」
「さっきから会社のは俺らに押しつけとるくせに」
「当たり前だろ。これは俺の」
あまりにも当然の顔で言うので、白石が笑った。
仁王もそれ以上は何も言わなかった。
丸井は昔から、もらったものを素直に喜ぶ。
変に格好をつけたり、興味のないふりをしたりしない。好きなものなら好きだと言うし、美味ければ美味いと言う。だから彼女から届いた箱も、きっと帰ったらちゃんと味わって食べるのだろう。作ったものなら感想を伝えるだろうし、買ったものなら店まで見るかもしれない。
そしてそのうち、同じくらい手の込んだものを自分でも作って返す。そういう男だった。
「そういや白石」
丸井が箸を置いた。
「今日もらった?」
「何を?」
「決まってんじゃん」
白石は一瞬考え、それから「ああ」と納得した。
「会社では何個か」
「本命は?」
「知らんよ」
「知らんってことある?」
「義理です、とは書かへんやろ」
もっともな返事だった。
好意を向けられることに、白石は昔から比較的慣れている。
だからといって雑に扱うわけでもない。受け取れば礼を言うし、必要ならきちんと返す。
ただ、それを勲章のように数える時期はとうに過ぎていた。
「仁王は?」
「俺?」
「何個」
「覚えとらん」
「絶対嘘。仁王、そういうの全部把握してそうじゃん」
仁王はグラスを傾けただけだった。
実際、誰から何を受け取ったかは覚えている。数えていないだけだ。必要以上の意味も持たせていない。
丸井が呆れたように笑い、白石もまた箸を伸ばす。そこで話題は終わった。
誰が何個。本命か義理か。
学生の頃ならもう少し意味があったのかもしれない。
大人になった今は、それだけで何かが始まるほど単純でもない。
それでも、目の前に座る丸井の鞄には、一つだけ明らかに扱いの違う箱がある。
白石はそれを、酒を飲みながら何となく見ていた。羨ましい、とは少し違う。自分にも恋人がいた時期はある。大阪にいた頃には、二月十四日を誰かと過ごした年だってあった。
東京へ来るときには一人になっていた。今の生活に不満はない。仕事にも慣れた。休日には仁王や丸井と会うことが増え、一人なら一人でやることはいくらでもある。
ただ、丸井が彼女から届いた箱を当然のように大切に鞄へ戻すのを見たとき、ほんの一瞬だけ、自分の数年先を考えた。
来年も再来年も、こうしているのだろうか。
それが嫌なわけではない。けれど、結婚したいという気持ちは昔からぼんやり持っている。なら、いつかは今とは違う二月十四日も来るのだろう。
「白石」
不意に呼ばれて顔を上げた。仁王がこちらを見ている。
「何?」
「それ食わんならもらうぜよ」
見ると、取り皿に最後の一つが残っていた。
「なんや、そっちか」
「何じゃと思ったん?」
「いや」
白石は皿を仁王のほうへ押した。仁王は何も言わず、それを取る。
一瞬だけ目が合った。何か気づかれたような気もしたが、確かめるほどのことではなかった。
店を出ると、二月の外の空気は思った以上に冷たかった。
日中に賑わっていた特設売り場も、そろそろ片づけが始まる時間だった。
駅まで三人で歩く。少し先を歩く丸井がスマートフォンを見て、足がわずかに遅くなる。
LINEの返信をしているようだったが、誰からなのか、聞く必要はなかった。
「丸井くん、顔」
白石が横から覗く。
「緩んでるで」
「うるせーな」
否定はしなかった。
数秒後、また画面を見る。その横顔は、店で仕事の愚痴を言っていたときより明らかに機嫌がいい。
仁王が後ろからその様子を眺めていた。
「ブン太」
「ん?」
「電話するなら先帰ってええぞ」
丸井が振り返る。
「なんで」
「別に」
「お前、今絶対なんか変な気遣いしただろ」
「気のせいじゃ」
「気持ち悪ぃ」
「帰りんしゃい」
白石が声をあげて笑った。
結局、丸井は駅に着くまで二人と一緒にいた。
改札前で路線が分かれる。
「じゃ、またな」
片手を上げて丸井は去っていく。少し歩いたところで、もうスマートフォンを耳に当てていた。
白石と仁王は、それをしばらく見送った。
「幸せそうやな」
「そうじゃな」
珍しく仁王が素直に同意した。そこに羨望も冷やかしもなかった。
ただ、そう見えた。
大切な誰かから届いた甘いものを鞄に入れて、帰り道にはその相手と話している。今日という日を、きちんと特別にしてくれる人がいる。
「仁王くんは、彼女欲しいとか思わへんの?」
歩き出してから白石が聞いた。
「急じゃな」
「なんとなく」
仁王は少し考えた。
夜の駅前には、まだ紙袋を提げた人が何人もいる。
「んー。別に今は」
それだけだった。強がりでもない。
仁王にとって、一人でいることは欠けている状態ではなかった。誰かを好きになれば、そのとき考える。恋人を作るために誰かを探すという発想自体が、あまりない。
「白石は?」
「俺は、そのうちは」
「そのうち、な」
「結婚はしたいしな」
「ほう」
「何やその反応」
「いや。ちゃんと考えとるんじゃなと思うて」
「普通やろ」
「俺は考えとらん」
バレンタインの夜だからといって、恋が始まるわけではない。
仁王には、今のところ誰もいない。白石にもいない。丸井には、遠くに一人いる。
それぞれ違う。それでいい。
白石と別れ、一人になった仁王は駅へ向かった。
コートのポケットには、職場でもらった小さなチョコレートが一つ入ったままだった。存在を忘れていたそれを指先に触れて思い出す。
今年の二月十四日は、たぶんこれで終わる。
ブン太は今頃、彼女と話している。白石は帰ったらコーヒーでも淹れるだろう。自分も家へ帰る。
何かが起きたわけではない。告白もない。特別な約束もない。
ただ、街じゅうが少しだけ甘くなる日に、誰かを想っている人間がいて。まだ誰も想っていない人間がいて。いつか誰かと、と思っている人間がいる。
仁王はポケットからチョコレートを取り出した。歩きながら包みを開ける。一口食べると、思っていたより甘かった。でも、悪くない。
そう思いながら、二月の夜を一人で歩いた。