三人になるまで

白石が東京に引っ越してきて、一ヶ月が経った。仕事には、まだ慣れない。朝の電車にも、駅構内を流れていく人の速さにも、まだ少し気を張る。駅から自宅までの道だけは自信を持って歩けるようになった。

困っているわけではなかった。大阪にいた時も一人暮らししていたし、料理も洗濯もできる。新しい職場の人間関係も悪くない。東京の部屋も気に入っている。日当たりはいいし、近所にはスーパーもある。少し歩けば飲食店も多い。生活するだけなら、何も問題はなかった。

「……暇やな」

土曜の午後。白石は一人、リビングの真ん中で呟いた。
洗濯は午前中に済ませた。掃除もした。昼食も作った。やることがなくなった。テレビをつけても、特に見たい番組はない。なんとなく流していたバラエティ番組の笑い声だけが、妙に広く感じる部屋へ響いている。

大阪にいた頃なら、この時間から誰かに連絡することもできた。

飯でも行かへん?どっか行かへん?

そんな程度の連絡でいい相手がいた。東京では、まだそういう相手がいない。職場の人間と休日まで会うほど親しくはない。関西の友人に電話しようかとも思ったが、わざわざ遠くにいる相手へ「暇や」と言うのも違う気がした。

白石はソファへ座り、スマートフォンを手に取った。特に目的もなく、連絡先をスクロールする。見慣れた名前。しばらく連絡を取っていない名前。仕事関係。昔の知人。

ぱたと指が止まった。

『仁王雅治』

「……いやいや」

その名前を見て、小さく首を振る。
なんでやねん。中学時代から知ってはいる。大会で何度も顔を合わせたし、中学卒業後も共通の知人を通して何度か会った。東京への転勤が決まったと話した時も。

『ほう。じゃあ、こっち来たら飯でも行こうぜよ』

そんなふうには言われた。けれど。

「社交辞令やろ」

白石はスマートフォンをローテーブルへ置いた。
そもそも、自分から仁王に。『暇?』なんて送るほどの関係ではない。目を閉じて、ソファの背にもたれる。

五分ほど経った頃。スマートフォンが鳴った。白石は何気なく画面を見る。表示されている名前を見て、眉を寄せた。

『仁王雅治』

「怖っ」

思わず声が出た。メッセージではなく、電話だった。少し迷ってから通話ボタンを押す。

「……もしもし」
『白石?』
「そうやけど」
『何しとる?』

白石は部屋を見回した。つけっぱなしのテレビ。飲みかけのコーヒー。何も予定の入っていない午後。

「……なんも」
『暇か?』
「まあ」
『じゃあ来ん?』
「どこに」
『横浜』
「なんで?」
『俺がおるから』
「知らんがな」

電話の向こうで、仁王が笑った。

『ブン太もおる』
「丸井くん?」
『そう』

白石は少し黙った。
丸井ブン太。もちろん知っている。仁王と同じ立海大附属だった。学生時代に何度も試合を見たし、話したこともある。こちらとも卒業後も何度か顔を合わせている。ただ、仁王よりさらに遠い関係。会えば挨拶する。何人かで集まれば普通に話す。その程度だった。

『来んのか?』
「いや……」
『暇なんじゃろ』
「そうやけど」
『なら来ればええじゃろ。場所送る』
「まだ行く言うてへんで」
『じゃ』

電話が切れた。

「……あいつほんま」

直後、地図が送られてきた。それから時計を見る。もう一度、地図を見る。一瞬、行かなくてもいいかとも思ったが、せっかく連絡きたし、と白石は立ち上がっていた。

「ほんとに来た」

店に入った白石を見て、丸井が言った。
休日の横浜は人が多かった。待ち合わせ場所の近くにある店もほぼ満席で、話し声と食器の音が店内に絶えず流れている。

「……どうも」

白石が軽く手を上げる。

「久しぶり」
「久しぶりやな」

丸井も笑った。けれど、その笑い方は少しだけぎこちなかった。
白石も同じだった。
仁王は向かいの席で、その様子を面白そうに眺めている。

「来ると思わんかった」
「仁王くんが呼んだんやろ」
「まあまあ。座りんしゃい」

白石は空いている席へ座った。丸井の隣。仁王の向かい。座ってから、なんとなく微妙な配置だと思った。

「白石、東京来たんだって?」
「ああ。二週間くらい前にな」
「住んでるのどの辺?」
「世田谷のほう」
「へえ。職場も?」
「職場はもうちょい都心やな」
「通勤大変じゃね?」
「まあ、大阪おった時よりは。人多いし」

普通の会話だった。あまりにも普通すぎて、白石は少しだけ居心地が悪かった。丸井も似たようなものなのか、質問が一区切りつくたびに微妙な間が空く。そのたびに、仁王が適当なことを言った。

「白石、東京来て寂しいらしい」
「…は?」

丸井が白石を見る。

「そうなの?」
「ちゃうわ」
「さっき暇言うとったじゃろ」
「暇と寂しいは別や!」
「でも東京に知り合いいないんだろい?」
「まあ……そんなには」
「じゃあ寂しいじゃん」
「なんでそうなんねん」
「仁王」
「ん?」
「お前、ちゃんと遊んでやれよ」
「なんで俺が」
「知り合いなんだろ?」
「お前さんもじゃろ」
「俺、白石と二人で遊んだことねーもん」
「俺もない」

そして、仁王がテーブルへ頬杖をつきながら不適な笑みを浮かべながら言った。

「ま、そうは言っても今日からオトモダチじゃな」

その言葉に、白石と丸井は目を見合わせ「雑」「雑やな」と言いながら笑った。

「ほら」
「何が」
「もう仲良しじゃな」

「お前黙ってろ」
「黙っとけ」

また重なった。今度は丸井が先に吹き出した。

「白石、結構言うじゃん」
「仁王くんにはこれくらいでええやろ」
「わかる」
「お前さんら、今日会ったばっかじゃろ」
「会ったことは前からあるわ」
「そういう意味じゃないぜよ」

一時間もすると、最初のぎこちなさはかなり消えていた。

「え、白石料理すんの?」

丸井が身を乗り出す。

「するで」
「何作る?」
「普通やで。和食も作るし、パスタとかも」
「へえー。仁王なんも作れねーよ」
「作れる。面倒だから作らんだけ」
「卵焼き。昔、真っ黒にしたじゃん」
「いつの話じゃ」
「中学」
「なんで覚えとる」
「そりゃ覚えてるだろ。あれ卵焼きじゃなくて炭だったもん」
「盛るな。しかもその時一回きり」

白石が笑う。

「昔からそんなんなんや」
「そうそう」

丸井は楽しそうだった。

「こいつ昔――」
「ブン太」

仁王の声が少し低くなる。

「何」
「余計なこと言うたら殺す」
「怖っ」

そう言いながら、丸井は全く怖がっていない。仁王も本気で止めるつもりはないのだろう。白石はそのやり取りを見ながら、グラスを口へ運んだ。そこには、自分の知らない時間がある。二人が同じ学校で過ごした何年か。

共通の友人。共通の記憶。白石の知らない仁王。仁王の知っている丸井。話の端々に、知らない名前が出てくる。

「ジャッカルがさ」
「ああ、あれじゃろ」
「そうそう。それで幸村が――」
「あいつなら言うな」

白石は黙って聞いていた。疎外感というほどではない。むしろ当然だと思った。この二人には、この二人の歴史がある。自分は、そこへ今日たまたま呼ばれただけだ。それを寂しいとは思わない。

ただ。少しだけ、自分の座る位置を意識した。

「……白石?」

丸井の声で顔を上げる。

「ん?」
「何飲む?」
「ああ」

白石はメニューを見る。

「次、ハイボールにしよかな」
「俺もそれにしよ」

丸井が店員を呼ぶ。

「ハイボール二つと――仁王まだビール?」
「俺もハイボール」
「じゃ三つ」

白石が顔を上げる。

「三つ?」
「ん?」

丸井が不思議そうに見る。

「いや」

白石は小さく首を振った。なんでもない。

三つ。

ただ、それだけなのに。少しだけ妙な感じがした。

店を出たのは夜九時を過ぎた頃だった。
昼間より人通りは減っていたが、駅前はまだ賑わっている。

「じゃ、俺こっち」

改札近くで丸井が言う。

「ああ、またな」

白石が返す。丸井が少し歩きかけてから、振り返った。

「白石」
「ん?」
「今度うまい店教えてよ」
「俺が?」
「東京じゃなくて、大阪の」
「ああ」
「今度行くかもしんねーし」
「ええで。LINEしてや」
「おう」

丸井が手を上げる。

「じゃーな、仁王」
「あぁ」

丸井は人混みの中へ消えていった。
残ったのは、仁王と白石。同じ方面の電車のためホームへ向かって二人で歩き出す。

「どうじゃった?」
「ん?」
「ブン太」

白石が眉を寄せる。

「なんやその質問」
「いや」

仁王が笑う。

「お前さんら、合いそうじゃなと思って」
「……まあ」

白石は少し考える。

「思っとったより話しやすかったわ」
「じゃろ?」
「仁王くんと違って素直やし」
「余計じゃ」

二人で歩く。少しして、白石が言った。

「仁王くん」
「ん?」
「今日、なんで俺呼んだん?」
「暇言うたから」
「電話してきたん仁王くんが先やろ。しかも俺から暇とは言ってへん」
「そうじゃったかの」
「誤魔化すな」

仁王はしばらく黙っていた。人の流れを避けながら歩く。それから、前を向いたまま言った。

「……東京来て二週間じゃろ」
「うん」
「そろそろ暇しとる頃かと思って」

白石が横を見ると、仁王は何でもない顔をしていた。
言葉に詰まる。

「感動したか?」
「してへん」
「素直じゃないのう」
「仁王くんに言われたない」

そのまま電車の中では他愛もない話をしていた。
乗り換えのため、途中駅で白石が電車から降りようと数歩歩いて、仁王の方を振り返った。

「仁王くん」
「ん?」
「また暇な時、連絡してや」

仁王が少しだけ意外そうな顔をした。

「俺から?」
「……別に俺からでもええけど」
「ほう」
「その顔やめや」
「白石から誘ってくれるん?」
「やっぱええわ」
「嘘嘘」

仁王が笑う。

「また呼ぶきに。ブン太も一緒に」

白石は少し考えた。

「三人、ええかもな」

仁王が笑った。

「了解」

白石は電車を降りて行った。

その夜。帰った部屋は、昼間と何も変わっていなかった。
静かなリビング。一人分の食器。一人分の生活。それでも、昼に感じたほど広くは思わなかった。

それから三週間。白石は仕事帰りの電車で、スマートフォンを見ていた。少し混んだ車内。窓の向こうには、夜の街が流れている。

通知が一件。丸井からだった。

『白石』
『ん?』
『この前言ってた大阪の店どこだっけ』

白石は店の名前を送る。

『ここやで』
『サンキュー』

そこで終わった。その程度のやり取り。まだ、二人で会うほどではない。仁王を介さず連絡することも、ほとんどない。白石がスマートフォンをしまおうとした時。

もう一度、画面が光った。

『てか明日暇?』

「……」

白石は画面を見る。少し迷う。

『夜なら』

すぐに返事が来た。

『仁王と飯行く』『来る?』

白石はその文字をしばらく見た。この前は、仁王が自分を呼んだ。今回は、丸井。ほんの少しだけ違う。

『行くわ』

すぐに既読がついた。

『おっけー』『じゃ3人で』

白石はその言葉を眺めた。

三人で。

まだ、その言葉が少しだけ新鮮だった。

翌日。店に着くと、仁王が先にいた。

「お」
「おう」

白石が向かいへ座る。

「丸井くんは?」
「遅れるって。仕事押しとるらしい」
「大変やなあ」

二人で飲み物を頼み飲み始める。五分。十分。丸井はまだ来ない。

「……なあ」

白石が言う。

「ん?」
「これ、丸井くん来んかったら、俺ら二人で飯食うことになるん?」

仁王が白石を見る。

「嫌か?」
「いや、別に嫌ちゃうけど」
「ならええじゃろ」
「そうやけど」

仁王の口元が上がる。

「なんかデートみたいじゃな」

白石が即座に立ち上がるふりをした。

「帰るぞ」
「冗談じゃ」
「仁王くん、ほんまそういうとこやぞ」
「何が?」
「知らん」

と、そこへ「悪い!」と丸井が駆け込んできた。

「遅れた!」

白石が時計を見る。

「二十分」
「ごめんって」
「俺、仁王くんと二人にされてんで」
「だからどうしたんだよ」

丸井は笑い、仁王が眉を寄せた。

「被害みたいに言うな」
「だって仁王くん面倒やねん」
「知ってる」

丸井が当然のように白石の隣へ座った。

「腹減った。頼んだ?」
「まだ。飲み物だけ」
「じゃあ頼もうぜ」

メニューを三人で覗き込む。肩が触れそうな距離。

「あ、これうまそう」
「ほんまやな」
「仁王、これ食う?」
「どれ」
「これ」
「食う」
「じゃあこれと」
「ブン太、こっちも」
「あ、いいじゃん」
「白石は?」
「俺なんでもええで」
「じゃあこれも」
「多ない?」
「三人いるし平気だろ」

三人。

注文を終えて、料理が来る。
丸井が勝手に取り分ける。仁王が横からつまむ。白石がそれを止める。そんなことを繰り返しているうちに、時間は過ぎていった。

「白石、これ食う?」

丸井が小皿を白石の前へ置く。

「おお。ありがとうな」
「仁王は?」
「いらん」
「じゃあ俺食う」
「ブン太、それ俺が頼んだやつじゃぞ」
「いらないって言ったじゃん」
「全部いらんとは言っとらん」
「相変わらずやなあ、二人とも」

白石が笑いながらグラスを持ち上げる。その言葉に、仁王がふと白石を見た。

「なんや?」
「いや」

仁王が少しだけ笑う。

「白石もだいぶ慣れたのう」
「何に?」
「俺らに」

白石は一瞬考えた。それから。「……まあな」とだけ答えた。

「最初めっちゃよそよそしかったもんな」
「丸井くんもやろ」
「俺は普通だったって」
「嘘つけ。初対面みたいな会話してたやん」
「してたっけ?」
「『どの辺住んでんの?』とか」

「あー」

丸井が思い出したように笑う。

「したかも」
「せやろ?」
「でも今知ってるし」
「何を?」
「白石んち」
「まだ教えてへんで」
「世田谷」
「広すぎるわ」

仁王が吹き出した。

「ブン太、それ知っとるうちに入らんじゃろ」
「じゃあ今度行けばいいじゃん」

白石が眉を上げる。

「俺ん家?」
「うん」
「なんで?」
「行ってみたいから」
「雑やなあ」
「ええじゃろ」

仁王まで当然のように言う。白石は二人を見る。

「……二人とも来る気なん?」
「行く」
「行くぜよ」

迷いがない。白石は呆れて息を吐いた。

「ほな、片付けとかなあかんな」

丸井が少し目を見開く。

「え、いいの?」
「来るんやろ?」
「行く」
「ならしゃあないやん」

白石はそう言って、メニューへ視線を戻した。仁王と丸井が一瞬だけ顔を見合わせる。何も言わない。丸井は少し嬉しそうに笑った。仁王も、小さく口元を緩めた。

この頃はまだ。一人が誰かを呼んで。その誰かが、もう一人を誘う。三人で集まるには、まだ少しだけ理由が必要だった。予定を聞く相手も、店を決める順番も、誰の家へ行くかも。まだ、何となく手探りだった。

けれど、こういうことを何度も繰り返して。いつか誰も「三人で」とすら言わなくなる。一人が呼べば、もう一人も来る。予定を聞く相手が、最初から二人になる。店を探す時は、無意識に三人席を見る。

冷蔵庫には、誰かが来る前提で飲み物が増える。そんなふうになるのは、たぶん、もう少しだけ先の話だ。