それなりには
「仁王くんは学生の時モテてそうやなあ」
白石がそう言った時、丸井の中に浮かんだのは、告白された仁王でも、バレンタインに菓子を抱えていた仁王でもなかった。もっとどうでもいい日のことだった。
高校一年の秋。
たしか、まだ暑さの残っていた頃。音楽の授業をひとつ、仁王が丸ごとサボった日のこと。
「急にどうした?」
仁王はグラスを傾けながら白石を見た。
金曜の夜だった。三人で入った店は駅から少し離れていて、週末にしては静かだった。開け放された厨房から食器の触れ合う音が聞こえ、時折、隣のテーブルの笑い声が混じる。
三人でしていた仕事の愚痴はとっくに終わっている。何をきっかけにしたのか、高校時代の話になっていた。
「なんとなくやけど。高校生の仁王くんって、モテそうやん」
「まあ。…それなりには?」
「それなり!?」
丸井はグラスを置いた。氷がひとつ、遅れて音を立てた。
仁王がちらりと見る。
「何じゃ」
丸井は笑った。
「お前のそれなりは信用なんねーなと思って」
「なんで」
「覚えてねーだろ」
「何を?」
やっぱり覚えていない。
丸井はそう思った。
白石が面白そうに二人を見る。
「なんかあったん?」
「いっぱいあったけど」
丸井は少し考えて、それから言った。
「音楽サボってた時とか」
仁王の眉が寄った。
「俺、そんなサボっとらんよ」
「ほら、それも覚えてねーじゃん」
「覚えとるよ」
「じゃあ一年の秋」
仁王は黙った。
その顔を見ているうちに、丸井の中で、あの頃毎日のように通っていた校舎の風景が蘇る。
高校時代の仁王を思い出そうとすると、なぜか丸井の記憶には白いシャツがよく残っている。
春のブレザーではない。夏を越して何度も洗われ、入学した頃より少し柔らかくなった白いシャツ。
仁王は暑がりというほどではなかったが、袖をよく捲った。きちんと折るわけではない。二度ほど適当に返して、肘の少し下に留める。ブレザーを着ている間は、仁王の身体はずいぶん細く見えた。
もともと手足が長い。制服の硬い生地は肩からまっすぐ落ち、その下にあるものを綺麗に隠した。
春先、クラスの女子が仁王くんって細いよね、と話しているのを聞いた時、丸井は少しだけ首を傾げた覚えがある。
仁王が細い、というのがよく分からなかった。
中学から三年間、同じコートに立っていた。
肩をぶつけたこともあれば、ふざけて背中を押したこともある。試合のあと、汗を吸ったユニフォームが身体に張りついているのも何度となく見ていた。
仁王は長いだけだ。
長い腕と脚に目を取られるから、そう見える。
高校に入ってさらに背が伸びてからは、なおさらだった。けれどブレザーを脱いでシャツ一枚になれば、春には隠れていた骨格が現れる。
肩は思っているより遠いところにある。背を丸めれば、肩甲骨のところで布が引かれる。袖を捲った腕も、制服姿から想像するほど細くはなかった。
丸井にとっては、それが仁王だった。
だから、夏服になってしばらくした頃から女子の視線が少し変わったことにも、ずいぶん後まで気づかなかった。
その日は、四限が音楽だった。音楽室に移動し、予鈴が鳴る少し前、音楽の先生が事前に黒板に書いていた今日の授業内容を仁王は見つめていた。「歌唱」の文字があった。
仁王はそれをしばらく見ていた。
窓の外では、九月の終わりだというのに蝉が一匹だけ鳴いていた。
教室のあちこちで椅子を引く音がする。音楽室へ移動してきて、皆が席に座って授業が始まるのを待っていた。
仁王は椅子を引いた。
「ブン太」
「ん?」
「今日、俺見んかったことにして」
丸井が顔を上げた時には、仁王はもう立ち上がって教室を出て行こうとしていた。
「は?」
返事はなかった。
音楽室から仁王は去った。
教師が出席簿を見ながら名前を呼び、返事がないことに気づいて顔を上げた。
「仁王。あれ、仁王ー?」
当然、返らない。
先生はなぜか丸井を見た。
「丸井。仁王はどうした?」
「知らないです」
嘘ではなかった。
サボるつもりなのは分かったが、どこへ消えたのかまでは知らない。
音楽室の窓から見える空は、夏より少し高くなっていた。
開いた窓から風が入って、譜面の端を揺らしていた。
その一時間、仁王の席だけがずっと空いていた。
昼休みになって教室へ戻っても、まだ仁王はいなかった。
ブレザーは椅子に掛かっている。鞄もある。机の上には音楽の前の授業だった数学の教科書がおきっぱなし。
丸井は購買へ行くついでに、校舎の端へ向かった。
探すというほどでもなかった。たぶん、あの辺だろうと思っただけだった。
特別教室の並ぶ古い棟は、昼になると静かだった。
教室のある校舎から聞こえてくる声も、渡り廊下を越えるとずいぶん遠くなる。
階段の踊り場に、大きな窓があり、半分開いている。
そこから入った風が、壁に貼られた古い掲示物の端を揺らしていた。
仁王は、踊り場の壁に背を預け座っているのが見えた。長い脚を投げ出して、文庫本を読んでいる。
授業を抜けてきた人間とは思えないほど、大人しく静かだった。
丸井は階段の途中で一度立ち止まった。
こうして離れたところから見ると、クラスの女子が仁王を細いと言っていた理由が少し分かる気がした。
脚が長い。腕も長い。
座っていても身体の線が縦に伸びて見える。
けれど、シャツは肩からそのまま落ちてはいなかった。
首の付け根から肩へ向かうところで一度広がり、背中を包んで、それから腰へ細くなっている。
しかし、丸井には見慣れた形だった。
見慣れすぎていて、誰かがそこに意外さを感じることのほうが不思議だった。
「仁王」
「お。ブン太」
それだけ言って、仁王は本に指を挟んだ。窓から入った光が眩しかったのか、目元が少し細くなる。
「音楽の授業終わって、今昼だぞ」
「もうそんな時間か」
「音楽の先生探してたぞ。怒られるぜい。バレたら真田にも」
「じゃろうなあ…」
他人事のような声だった。
けれど、何も分かっていないわけではない。怒られることも、評価に響くかもしれないことも知っている。
それでも今日は、音楽室に行かなかった。仁王はそういうところがあった。
大きく道を外れるわけではないのに、ときどき、自分にとって必要のない線だけをひょいと跨いでしまう。
「そんな歌うの嫌?」
「嫌というか。向いとらん」
それ以上の説明はなかった。丸井も聞かなかった。
「俺、購買行くけど」
「なら、俺のも頼むぜよ」
「自分で買え!」
そう言いつつも、本を開く仁王に呆れ丸井は購買に行くも仁王の分もなんだかんだ買ってあげた。
パンを買い、仁王のいる踊り場へ戻る途中、仁王以外の声が聞こえた。
女子の声だった。二人いる。
さっきまで仁王しかいなかった踊り場に、同じ学年の女子が二人立っていた。片方は音楽の授業で見た顔だった。
二人とも、仁王の前に立って見下ろしていたが、仁王は座ったままだった。
文庫本を閉じて、顔を上げている。
「音楽、いなかったよね」
「おらんかったね」
「サボったの?」
「んー。今日はお休み」
悪びれた様子はない。けれど得意そうでもなかった。
窓から風が入り、仁王のシャツの裾を揺らした。
女子の一人が何かを言って笑う。仁王もそれに合わせて笑っていたが。ほんの少し、口元が緩んだだけだった。
何か特別なことをしているわけではなかった。面白い話をしているようにも見えない。
仁王は普段の仁王だった。教室で丸井と話す時と、大して変わらない。
「ねー、なんの本読んでるのー?」
女子が、仁王の持っている本を見たがり、仁王は素直に差し出した。
仁王の腕が伸びると捲った袖が少し上へずれた。その時、女子の視線が動いた。
一瞬だった。
本ではなく、仁王の手から腕へ。そこからシャツの肩口へ。すぐに顔へ戻る。
仁王は気づかなかった。たぶん。
丸井はその様子を夏服になってから、似たようなことが何度かあった気がした。
教室で袖を捲った時。体育のあと。部活へ向かうため、ネクタイを外してシャツの第一ボタンを開けた時。
そのたび、近くにいた女子の声が少しだけ変わった。
丸井にはずっと、それが何なのか分からなかった。今、ようやく分かった気がした。
仁王は春の頃から目立っていた。それは知っていた。
知らない女子から名前を呼ばれることもあったし、廊下で見られていることもあった。
顔だろうと思っていた。銀色の髪もある。背も高い。それだけで十分なのだろうと。
けれど、たぶん違った。少なくとも、それだけではなかった。
授業を抜けて、人気のない階段で本を読んでいる。
先生に見つかれば怒られる。本人も分かっている。それなのに、隠れているという感じがしない。
女子に見つかっても格好をつけない。
サボったことを自慢もしない。
話しかけられれば、本から顔を上げて目を見て普通に話す。
それだけだった。
それだけなのに、秋の薄い光の中に座っている仁王は、妙にそこに馴染んでいた。
丸井は、その時初めて思った。
ああ。こいつ、こういうのでモテんのか。
「ブン太」
仁王がこちらに気づいて、丸井はパンを投げた。仁王が片手で受け取る。
「ありがとの」
女子二人がまた笑った。
仁王はもう袋を開けていた。
仁王が食べ始めたタイミングで女子二人は「じゃ、またねー」と去って行った。
丸井はそのまま仁王と踊り場で昼食を食べた。
その日の放課後、仁王は音楽教師に捕まっていた。
次にサボったら評価を下げると、ずいぶん長く説教されたらしい。
部室へ来た時には少し遅れていた。それでも、練習には出た。
秋の日は短い。
少し前まで明るかったコートにも、すぐに長い影が落ち始めた。フェンスの向こうの木々が風に鳴っていた。乾いた葉が一枚、コートの隅へ転がっていく。
仁王は昼間のことなどなかったようにラケットを握っていた。
踏み込むたび、シューズの下で砂が鳴る。ボールを追って身体を開けば、白い練習着の背中が引かれる。打球に合わせて肩が動く。長い腕が伸び、その先でラケットが夕方の光を切った。乾いた音がコートに響く。
丸井には、何百回と見てきた仁王だった。
昼間の階段で、シャツの袖口から覗く腕を見ていた女子のことを思い出す。
ふと、フェンスの外に人影があることに気づいた。
女子が何人かいた。幸村のことを見にきたのかと思った。
その中に、昼間の二人がいた。
一人は友人に何かを話しかけられていた。けれど返事をしつつも視線だけがコートの中に残っている様子だった。
その視線の先で、仁王がサーブのためにボールを上げていた。
黄色いボールが、秋の低い空へ浮かぶ。身体が反る。ウェアの下で、春には隠れていた骨格がはっきり動いた。
ボールが落ちてくる。打球音。
女子が、小さく何かを言った。
風に消えて、丸井には聞こえなかった。聞こえなくても、もう分かった。
翌朝。
校舎の玄関ホールは、いつものように騒がしかった。
誰かが走っている。朝練帰りの生徒が話している。靴箱の扉があちこちで金属音を立てる。
丸井が上履きへ履き替えている横で、仁王が自分の下駄箱を開けた。
白いものが落ちた。一枚の封筒だった。
仁王の足元へ落ちて、それから少し滑った。仁王は腰を屈めて拾う。
手紙の裏表を確認しながら、差出人の名前を見た。
「ブン太。これ、誰?」
「俺も知らねーなあ」
仁王はもう一度名前を見た。
困ったようでも、嬉しそうでもなかった。ただ、誰だったか思い出そうとしている顔だった。
丸井はその横で、昨日の階段を思い出していた。
白いシャツ。開いた窓。秋の風。膝の上の文庫本。
たぶん、あの女子だけではなかったのだ。
それから先、似たような封筒を何度か見た。
放課後、仁王の席まで呼びに来る女子もいた。
文化祭では、丸井の知らない制服の女子が仁王の写真を頼みに来た。
バレンタインの日は、朝から仁王の机の中に菓子が入っていた。
けれど不思議なことに、丸井の記憶に一番残っているのは、そういう日ではなかった。
音楽をサボった、何でもない秋の日。誰かに好かれるために、何ひとつしていなかった日の仁王だった。
「――お前のそれなりは、やっぱ信用なんねーよ」
丸井の声で、白いシャツの仁王が消えた。
目の前には、酒を飲んでいる今の仁王がいる。髪はあの頃より短い。制服も着ていない。グラスを持つ手も、高校生だった頃より少し大人びて見える。
仁王は怪訝そうだった。
「何が?」
「モテてたって話」
「じゃから、それなりじゃって」
「音楽一回サボっただけで、次の日ラブレター入ってたやつが言う?」
「それ俺がサボったん関係ないじゃろ」
白石が笑った。
「でも分かったわ」
「何が?」
「仁王くんがモテてたん」
仁王は白石を見る。
今の丸井の話を聞けば少しだけモテる仁王が見える気がした。
まだ今より少しだけ幼い顔。白いシャツ。
授業をひとつ抜けて、誰も来ない階段で本を読んでいる。本人だけが、そこに何の特別さも感じていない。
「ちょっと悪いぐらいがモテる時期やもんな」
白石がもう一度言うと、仁王はますます分からない顔をした。
その横で丸井が笑った。
高校生の頃から。たぶん、そういうところだった。