撮る側だったはず
丸井がカメラを買ってから、しばらく経った。
最初の頃は、出かけるたびに持ち歩いていた。
街を歩けば看板を撮り、飯を食えば料理を撮る。仁王と白石には、また撮っていると何度も笑われた。
それでも飽きなかった。
むしろ、撮れば撮るほど面白くなった。
同じものでも、光や角度でまったく違って見える。
目で見ていいと思った景色が写真にすると大したことがなかったり、逆に何となく撮った一枚が妙に気に入ったりする。
最近では、持って出るかどうかを考えることすら減った。
休日の鞄には、だいたいカメラが入っている。
その趣味を知っていた友人から連絡が来たのは、秋の初めだった。
知り合いが小さなカフェをやっている。
焼き菓子のラインナップを増やすので、店のウェブサイトとSNSに載せる写真が欲しい。
プロに頼むほど大掛かりなものではない。
何枚か撮ってもらえないか。
そんな話だった。
丸井は最初に、自分はプロではないと念を押した。
趣味で撮っているだけ。
仕事として撮影したこともない。
それでもいいと言われた。
むしろ、かっちりした商品写真より、店へ来た人が撮ったような自然な写真が欲しいらしい。
それなら。
丸井も引き受けた。
撮影の日。
店は定休日だった。
午前中の店内には、窓から柔らかい光が入っている。
テーブルの上には、その日のために焼かれた菓子が並んでいた。
スコーン。
フィナンシェ。
パウンドケーキ。
季節の果物を使ったタルト。
丸井は一通り見てから、すぐにカメラを出した。
撮り始めると、思っていたより時間がかかった。
皿を動かす。
少し離れて見る。
また動かす。
カメラを構える。
撮ったものを確認して、今度は窓際へ移す。
店の人が用意してくれた小物も、使ったり外したりした。
自分で食べるものを撮る時なら、ここまで考えない。
誰かが使う写真だと思うと、途端に気になるところが増えた。
「丸井さん、すごいですね」
店の人に言われる。
「いや、全然」
丸井はファインダーを覗いたまま答えた。
「普段こんなちゃんと撮らないんで」
「十分ちゃんとしてますよ」
そう言われると悪い気はしない。
丸井は少し笑った。
一時間ほどして、だいたいの写真が揃った。
最後に撮ったのはスコーンだった。
焼き色が綺麗で、丸井自身かなり気に入っている。
カメラの画面を確認する。
「これいいかも」
店の人も覗き込む。
「いいですね」
そこで少し考えるようにした。
「でも、食べてる感じも欲しいですね」
「食べてる感じ?」
「はい。実際にお客さんがいるみたいな」
丸井は店内を見る。
今日は定休日。
当然、客はいない。
スタッフは厨房にいる。
「誰か呼びます?」
「いや、そこまでしなくても……」
店の人が丸井を見る。
嫌な予感がした。
「丸井さん、ちょっと持ってもらえます?」
「俺?」
「手だけでいいので」
手だけ。
それなら別にいい。
丸井はカメラを店の人に預けた。
窓際の席へ座る。
皿の上にスコーン。
横にコーヒー。
丸井は言われた通り、スコーンを手に取った。
「こんな感じ?」
「そうです、そうです」
カメラのシャッター音がする。
「もう少しコーヒーの近くで」
手を動かす。
また撮る。
数枚で終わった。
「ありがとうございます」
「これでいい?」
「いい感じです」
丸井は立ち上がろうとした。
「あと」
止まる。
「一口食べてもらってもいいですか?」
丸井はスコーンを見る。
「食っていいの?」
「もちろん」
それなら話は別だった。
一口食べる。
さっきから撮りながら気になっていた。
外側は少し硬い。
中は思ったより軽い。
バターの香りがする。
「うま」
思わず口に出た。
シャッター音がした。
丸井が顔を上げる。
「今撮った?」
「撮りました」
「手だけじゃなかった?」
「すみません。顔も入ってます」
店の人がカメラを確認する。
「でも、これすごくいいですよ」
丸井は立ち上がって画面を覗いた。
確かに、自分が写っていた。
スコーンを片手に持って、少し笑っている。
撮られていることにはまったく気づいていなかった。
だから当然、カメラも見ていない。
「……俺、撮りに来たんだけど」
店の人が笑った。
「一枚だけ使ってもいいですか?」
丸井は写真を見る。
別に変ではない。
むしろ、自分で言うのも何だが結構いい写真だった。
店の雰囲気も分かる。
スコーンもちゃんと見える。
「まあ、これなら」
そう答えた。
それで終わるはずだった。
次はコーヒーを飲んでいるところ。
その次はタルト。
最後には、カウンター席へ移動していた。
「ちょっと待って」
丸井は途中で気づいた。
「増えてない?」
「何がですか?」
「俺の写真」
店の人が笑った。
最初は手元だけだった。
それがいつの間にか、丸井が店で焼き菓子を楽しんでいる一連の写真になっている。
仁王と白石がモデルをした時の話が頭をよぎった。
二人とも、撮影は思っていたより難しかったと言っていた。
仁王は立っているだけなのに細かく指示され。
白石はちゃんとやりすぎて、もっと力を抜いてと言われたらしい。
丸井には、そういうものがなかった。
ただ座って。
食べて。
コーヒーを飲んだ。
それだけだった。
「丸井さん、こういうの慣れてます?」
「全然」
「自然ですね」
「食ってるだけだからじゃない?」
たぶん本当にそうだった。
昼過ぎ。
撮影は終わった。
予定していた商品写真も撮れた。
店内の写真も。
それから、予定していなかった丸井の写真もかなり増えた。
余った焼き菓子を土産にもらった。
丸井はそれを鞄へ入れる。
カメラも片づける。
店を出る前に、撮影した写真を一通り確認した。
自分で撮った写真。
店の人が撮った写真。
同じ場所なのに、当然まったく違う。
人が一人入るだけで、店の見え方が変わる。
椅子の大きさ。
テーブルとの距離。
菓子を手に取った時のサイズ感。
何より、そこに人がいる場所だと分かる。
丸井は自分が写っていることより、そちらのほうが面白かった。
「これ、データもらっていい?」
「もちろんです」
写真を何枚か送ってもらった。
帰りの電車。
丸井はその中の一枚を開いた。
スコーンを食べているところ。
確かに自然だった。
仁王や白石のモデル写真とは、全然違う。
仁王は一枚の写真として妙に格好よかった。
白石は生活雑貨の広告に本当にいそうだった。
自分は。
「普通だな」
小さく呟いた。
ただカフェで菓子を食っている人だった。
でも、それが嫌ではなかった。
その日は二人に何も言わなかった。
別にモデルをしたわけではない。
写真を撮りに行ったら、少し写っただけ。
だから報告するほどのことでもないと思った。
一週間後。
昼休みにスマートフォンを開くと、仁王から個別にメッセージが来ていた。
『ブン太』
それだけ。
何だと思っていると、続けて画像が届いた。
見覚えのある写真だった。
カフェのSNS。
新しい焼き菓子を紹介する投稿。
その二枚目。
丸井がスコーンを食べていた。
「…………」
そういえば、掲載していいとは言った。
返信する。
『見つけんの早くね?』
『たまたま』
絶対に嘘だと思った。
続けて。
『ブン太もやっとるじゃん』
丸井は少し考えた。
『俺は撮る側だったんだよ』
『写っとるじゃろ』
『途中からな』
そこへ、白石からメッセージが来た。
グループLINEだった。
仁王がすでに写真を送っている。
『仁王お前』
丸井が打つ。
白石から返信。
『ほんまに丸井くんも来たな』
『何が?』
『モデル』
『だから俺は違うって』
仁王。
『三人ともやったのう』
『一緒にすんな』
『一緒じゃろ』
丸井はスマートフォンを見ながら、少し笑った。
『俺は撮影頼まれて行ったの』
『俺も撮影頼まれた』
仁王の返事。
『そういう意味じゃねーよ』
白石からは、
『でも丸井くんが一番自然やな』
と来た。
丸井は写真を開いた。
自分がスコーンを食べている。
その通りなので、何も言えなかった。
『食ってるだけだからな』
そう返した。
仁王。
『いつも通りじゃん』
『うるせー』
白石。
『それがええんちゃう?』
そこで会話は終わった。
丸井は午後の仕事へ戻った。
それからしばらくして。
店から連絡が来た。
写真の評判がよかったらしい。
商品写真も。
店内の写真も。
それから、丸井が写った写真も。
『また新商品が出る時、お願いできますか?』
丸井は素直に嬉しかった。
カメラを始めてから、誰かに写真を頼まれたのはこれが初めてだった。
『もちろん』
と返す。
少しして、もう一件届いた。
『できれば、また丸井さんにも写っていただけると』
丸井の指が止まった。
そこは予定していなかった。
しばらく考える。
断る理由も、特にない。
ただ。
今度また仁王に見つかったら、もう「撮る側だった」は通用しないだろう。
丸井は少し笑った。
『それも必要なら』
送信した。
カメラを始めた時、自分が撮られる側になるとは思っていなかった。
仁王がモデルをした時も。
白石がモデルをした時も。
まさか最後に自分まで続くとは思わなかった。
しかも三人とも、まったく別の場所で。
丸井はデスクの脇に置いたスマートフォンを見る。
三人のグループLINEには、少し前に仁王が送った写真が残っている。
仁王。
白石。
自分。
並べてみれば、確かに三人ともモデルみたいだった。
丸井は少しだけ面白くなって、三枚を並べた画像を作った。
送ろうとして。
やめた。
これは今度会った時に見せたほうが面白い。
そう思って保存した。
この時はまだ。
三人が同じ一枚に収まることになるとは、誰も知らなかった。